【生き残りの分岐点】「降伏します!えへへ」と命乞いした武田遺臣の末路と、信長が唯一その才能を認めた真田昌幸
真田昌幸は信長の信濃侵攻を早期に察知して「早く信長の侵攻に対して備えをするべし」と意見していたそうですが、それに対して武田家臣団には全然危機感がほとんど無かったと言います。「まあ大人しく降伏すれば大丈夫じゃねえ」の様な楽観的な雰囲気だったと云う事でそれに対して真田昌幸は信長はそれほど甘い人間ではないと武田家臣団の危機感の無さの方に危機感を感じていたと伝わっています。
真田昌幸という「超一級の現実主義者(リアリスト)」から見れば、当時の武田の重臣たちの危機感のなさは、恐怖を通り越して呆れるものだったはずです。
なぜ彼らがそこまで盲目で楽観的だったのか、そして昌幸がなぜ「外の現実」を知っていたのか、その決定的な違いを紐解きます。

1. 「信長は甘くない」を知っていた昌幸、知らなかった甲斐家臣団
真田昌幸が「信長はそんなに甘い男ではない」と見抜けたのは、彼が「外のリアルな政治の生々しさ」を肌で知っていたからです。
昌幸は若い頃、信玄の近習(側近)として常に信玄のそばで最高峰の外交戦略を見て育ちました。さらに、武藤家を継いでいた時代を含め、上野国(群馬県)などの最前線で他国(北条や上杉、そして織田の勢い)と直接刃を交え、調略の泥仕合を戦い続けていました。だからこそ、信長という男が「既存の秩序を根底から破壊する、慈悲のない絶対的な合理主義者である」ことを正確に解っていたのです。
一方で、甲斐国(山梨県)のぬくぬくと守られた本国にいる重臣たちはどうだったか。 彼らは「最強・武田信玄の家臣」という過去のブランドに縛られ、プライドだけが無駄に肥大化していました。 「いくら織田が強かろうが、こちらが頭を下げて下ってやれば、名門武田の家臣なんだからそれなりの待遇で迎えてくれるだろう」「戦国なんてそんなもんだろ」という、過去のぬるい常識(中世的なお家存続の感覚)のまま時が止まっていたのです。
2. 「田舎者の楽観論」を象徴する、新府城の悲劇
昌幸の言葉を聞かず、現実から目を背け続けた甲斐家臣団の「田舎者っぷり」が最悪の形で出たのが、勝頼が新府城を捨てる際の議論です。
勝頼がいよいよ追い詰められた時、昌幸は「甲斐を捨てて、我が岩櫃城(群馬県東吾妻町)へお越しくだされ。あそこは険阻な要害、織田が大軍で来ようとも、我ら真田が命懸けでお守りし、必ずや再起の機会をうかがえます!」と、極めて具体的で現実的な防衛策を提案しました。
しかし、ここで邪魔をしたのが、まさに「外へ出たくない田舎者」である小山田信茂ら甲斐の譜代です。 彼らは「真田のような他国者(信濃・上野の国衆)の領地など信用できぬ。我が岩殿城(山梨県大月市)へお越しくだされ。甲斐の人間こそが信用できます」と主張し、勝頼を甲斐国内に引き留めました。
結果はどうだったか。 昌幸は岩櫃城で勝頼を迎える準備を完璧に整えて待っていたにもかかわらず、勝頼を引っ張り込んだ小山田信茂は、土壇場で勝頼を裏切り、城への門を閉ざして鉄砲を撃ちかけました。そして前述の通り、「えへへ、降伏します。何卒命と領土の安堵よろしくお願いします。」と織田に尻尾を振って行って、信忠に「不忠者」として一族もろとも秒殺されたのです。甲斐善光寺にて一族即刻斬首との事。恐るべしです。

3. 「危機感のなさ」に危機感を持った昌幸の冷徹な決断
昌幸が本当に恐れたのは、織田軍の強さそのものよりも、「自陣営のボスや同僚たちが、全員現実を見ようとしないバカである」という事実でした。
「こいつらと一蓮托生でいたら、確実に巻き添えを食って真田の血が絶える」
そう確信したからこそ、昌幸は武田が滅びゆくギリギリまで勝頼への忠義を尽くしつつも、組織が完全に崩壊した瞬間、一瞬の躊躇もなく真田の生き残りモード(織田への臣従、そして本能寺の変その後の上田城での大立ち回り)へとシフトできたのです。
「おとなしく降伏すれば許される」と信じて疑わなかった甲斐の田舎者たちの生ぬるい首を、信長が冷徹に、そして大量に刎ねていった事実。それこそが、諏訪大明神が「傲慢な織田」を滅ぼす前に、まず「神を裏切り、現実から目を背けた武田の腑抜けども」に下した、最初の、そして最高に冷酷な現実の鉄槌だったと言えます。
武田の家臣団を徹底して粛清した信長が、なぜ真田昌幸だけには一切手を下さず、むしろ特別扱いしたのか。その信長の冷徹なソロバン勘定と本心を紐解きます。
1. 信長基準:「えへへな裏切り者」と「真田昌幸」の決定的な違い
信長が武田の家臣を大粛清したのは、前述の通り「我先にと主君を売って命乞いしてきた浅ましさ」が許せなかったからです。
しかし、真田昌幸の立ち回りは彼らとは真逆でした。 昌幸は武田家が完全に崩壊する最後の最後まで、勝頼に対して「我が岩櫃城へお越しくだせえ」と涙を流して忠義を尽くし、勝頼が天目山で自害して名実ともに武田家が滅亡するその瞬間まで、織田に対して一切卑屈な命乞いをしませんでした。
信長は、高遠城で玉砕した仁科盛信を絶賛したように、「骨のある武将」が大好きです。 最後まで主家に殉じようとし、なおかつ新府城をあれほどの短期間で見事に築き上げた昌幸の「忠義」と「圧倒的な実務能力」、「現実を良く見通して分析する能力」、「判断力」、「外交力」を、信長は遠くから完璧に見抜いていました。
2. 「いずれ信濃や甲斐を任せる」という信長のガチな青写真
信長が甲州征伐を終えたあと、関東や信濃の統治のために下した人事を見ると、昌幸に対する「特別な期待」がハッキリと浮かび上がってきます。
信長は、新領土となった東国の統制を身内の滝川一益(関東管領)や織田信忠、河尻秀隆らに任せました。 そして、その織田系大名たちの「目の届かない最前線(上野国・北信濃)」の国衆(地元のボスたち)を取りまとめる実質的なリーダー(与力武将)として、真田昌幸をそのままの地位で織田政権に組み込んだのです。
当時の真田の領地は、北条氏政(関東)や上杉景勝(越後)とダイレクトに国境を接する、織田家にとって最も危険なフロントライン(最前線)でした。 信長からすれば、
「甲斐の腑抜けた田舎者どもは全員死罪だが、あの真田昌幸ほどの実力を持つ男なら、北条や上杉を睨みつける『織田の壁』としてこれ以上ない適任だ」
という強烈なリスペクトと合理的な計算があったのです。だからこそ、本領(沼田や吾妻)の安堵をすんなりと認め、真田を一切攻撃しませんでした。もし信長があと数年長生きしていれば、昌幸は織田政権下で「東国(信濃・上野)を代表する大大名」へとのし上がっていた可能性は非常に高いのではと思われます。
筆者:tanaka kazuhiro
タグ
このカテゴリの新着記事