2026.08.10

徳川と名乗る事が出来なかった秀忠の実子、保科正之の生い立ち

伊那市立高遠町歴史博物館の前にお静と保科正之公の像があります。

1. 生母「お静(浄光院)」とは

後北条氏の旧臣であった神尾栄嘉(かんおながよし)の娘とされています。大奥にあがり奥勤めをしている時に秀忠に見初められて、秀忠との間に

生まれた子が幸松で後の保科正之となります。

2.何故、高遠の保科家の養子になったのか?

2代将軍・秀忠の個人的な事情(凄まじい恐妻家ぶり)です。秀忠はお江に対して生涯頭が上がらず、お静を妊娠させた際も怯えきって、乳母の大姥局に泣きついたほどでした。 秀忠としては、「幸松は私の子供ではなく、最初から保科家の人間として生きてもらう。徳川にも松平にも一切関係のない人生を送らせる」という完全な決別を見せることでしか、お江の怒りを鎮め、母子の命を救う方法がなかったのです。

①. 異母兄・家光との「跡取り問題」と、お江に対する恐怖

もし幸松(正之)の存在が公式に認められ、江戸城に上がっていたら、徳川家の歴史、ひいては日本の歴史がひっくり返っていた可能性は十分にあります。

当時、正室・お江が生んだ嫡男の竹千代(のちの3代将軍・家光)は、生まれつき体が弱く、内向的な性格でした。さらに、弟の国松(のちの忠長)の方が容姿端麗で聡明だったため、お江は国松を溺愛し、次期将軍を巡る世継ぎ争いが大奥や幕閣の中で火花を散らしていた時期です。

そこへ、もし「三男の幸松がめちゃくちゃ優秀だ」という評判が立って江戸城に現れたらどうなるか。 竹千代派も国松派も混乱に陥り、幕府を二分する一大抗争に発展しかねません。成り行きによっては側室お静の子幸松が将軍の継承者となってしまう可能性も否定出来ません

我が子をどうしても将軍にしたいお江からすれば、幸松母子は「何が何でも排除すべき政敵」になります。大奥の最高権力者であるお江の権力をもってすれば、秘密裏に母子を暗殺(毒殺など)することなど容易だったはずです。

お江(崇源院)の実家である浅井家は、織田信長によって滅ぼされ、母の市も柴田勝家とともに自害するという、壮絶な滅亡の歴史をたどっています。「浅井の血を天下の最高権力者として残す」というお江の執念はすさまじく、それを脅かす存在(隠し子である正之)に対しては、文字通り「容赦なく排除する」狂気と凄みを持っていたとしてもおかしくありません。

. なぜ、「松平」すら名乗れなかったのか?

「徳川」は無理でも「せめて「松平」くらい……という親心があっても良さそうですが、当時はそれが絶対に許されない決定的な理由が2つありました。

① 「松平」の姓自体が、当時は徳川一門の最高ブランドだった

江戸初期において、「松平」の苗字は誰でも名乗れるものではなく、将軍家の血を引く親藩(御家門)や、徳川家に多大な功績のあった有力大名(前田家や島津家など)に特権として「授ける」もの(松平下賜)でした。 つまり、松平を名乗ること自体が「私は徳川の一門(特別な血筋)ですよ」と天下にアピールすることと同義だったのです。お江に隠れてこっそり育てる隠し子に「松平」をつけてしまえば、その瞬間に公式な一門として目立ってしまい、隠蔽工作がすべて水の泡になってしまいます。

② 秀忠の「お江への恐怖」と男のケジメ

もう一つは、2代将軍・秀忠の個人的な事情(凄まじい恐妻家ぶり)です。秀忠はお江に対して生涯頭が上がらず、お静を妊娠させた際も怯えきって、乳母の大姥局に泣きついたほどでした。 秀忠としては、「幸松は私の子供ではなく、最初から保科家の人間として生きてもらう。徳川にも松平にも一切関係のない人生を送らせる」という完全な決別を見せることでしか、お江の怒りを鎮め、母子の命を救う方法がなかったと思われます。

3. だからこそ輝く、のちの「松平正之」への大逆転ドラマ

この「松平すら名乗れず、保科として生きるしかなかった」という理不尽なスタートがあるからこそ、その後の歴史のドラマが最高に盛り上がります。

のちに兄・将軍家光が正之の優秀さと誠実さを知り、深く信頼するようになると、家光は正之を異例の大出世(会津23万石)させ、ついに「松平」の姓と「葵の紋」の使用を許可します。 しかし、正之は「自分を育ててくれた養父・保科正光への恩を忘れない」として、自分が生きている間は頑なに「保科」を名乗り続け、子どもの代になって初めて「松平」を名乗らせました。

4.命がけで高遠へ逃れた、母子の絆

保科正之の誕生は、決して祝福されたものではありませんでした。将軍・秀忠の隠し子として生まれた彼は、正室の嫉妬から命を狙われる危険すらありました。そんな母子を救ったのが、武田信玄の娘であり穴山梅雪の妻であった見性院です。

当時わずか7歳だった幸松と母親のお静は、籠(かご)や馬を使うと目立ってしまうため、母・お静とともに身分を隠し、険しい山道を自らの足で歩いて越え、ようやく高遠城へとはるばるたどり着いたといいます。高遠城の「南曲輪」は、そんな苦難を乗り越えた母子が静かに身を寄せ合い、絆を深めた特別な場所なのです。

金沢峠越え(金沢宿〜藤沢〜高遠)のルートと歴史の真相

元和3(1617)年11月、わずか7歳の幸松(正之)と母のお静は、見性院(武田信玄の娘)のもとを離れ、養父となる保科正光が待つ高遠城へと向かいました。

1. なぜ「金沢峠」を越えたのか?

当時、江戸から信濃・高遠へ向かう一般的な街道(中山道〜諏訪)もありましたが、彼らが選んだのは甲州街道の金沢宿(現在の長野県茅野市金沢)から、標高約1,300mの「金沢峠」を越えて伊那谷(高遠領)へ入るルートでした。

  • 極秘の旅ゆえの別道 幸松は将軍・秀忠の隠し子です。正室・お江の目を忍び、また幕府関係者や一般の旅人に正体がバレて騒ぎになるのを防ぐため、人通りの多い表街道を避け、あえて諏訪と高遠の境にある険しい山越えの「金沢峠」を選んだとされています。
  • 武田旧臣たちのネットワーク 金沢峠から下りていく「藤沢(旧高遠町藤沢)」周辺は、かつて武田家や保科家に仕えた国人や郷士が多く住む地域でした。お静母子をかくまい、安全に高遠城へ送り届けるために、気心の知れた信頼できる裏道を使ったのです。

2. 藤沢郷での休息と高遠城入り

金沢峠を命がけで越えた母子は、峠を下りた藤沢郷(御堂垣外など)の地に無事着きました。

地元には、旅の疲れを癒やすために母子が立ち寄った・身を寄せたという伝承や、無事の到着を喜んだ保科家の家臣たちが出迎えたという記録が残されています。そこから伊那街道を下り、ようやく目的地の高遠城(南曲輪)へと無事に入城を果たしました。

筆者:tanaka kazuhiro

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