2026.07.17

「大奥の頂点から信州の高遠へ――悲劇の女帝・江島が過ごした『高遠』の27年」

大奥の御年寄(大年寄)として絶大な権力を握りながら、「江島生島(えじまいくしま)事件」によって信州高遠(現在の長野県伊那市高遠町)へ流罪となった江島(絵島)。

「高遠への流刑の背景と暮らし」、そして現在も訪れることができる「高遠のゆかりの地(史跡)」をご紹介します。江島の屋敷はこちらの高遠の長谷非持火打平になります。

1. 江島の高遠流罪とその暮らし

正徳4年(1714年)、7代将軍・徳川家継の生母である月光院の側近だった江島は、歌舞伎役者・生島新五郎との密会や大奥の門限破りをきっかけに罪に問われました。本来は死罪のところ、月光院の嘆願により一命を取り留め、高遠藩(藩主・内藤清枚)への遠流(おんる)を命じられます。生島新五郎は三宅島への流罪となります。

高遠での暮らしは、前半と後半で大きく環境が変わりました。

  • 過酷な幽閉生活(前半) 高遠に到着した江島は、周囲を高い板塀と忍び返しで囲まれた「囲み屋敷」に監禁されました。部屋の格子戸は「はめ殺し(開閉できない構造)」にされ、衣服は木綿のみ、朝晩の食事は一汁一菜、酒や間食は禁止という、実質的な監獄生活でした。江島は日々、ひたすら読経に明け暮れていたと伝わります。

  • 緩和された晩年(後半) 後年、幕府からの監視の目が緩むと、高遠藩の配慮により城内や屋敷の周囲を散歩することが許されるようになります。月に数回は高遠城に出向き、藩の女性たちに大奥仕込みの「躾(しつけ)」や作法を指導したとも言われています。江島は高遠の地で27年余りを過ごし、寛保元年(1741年)に61歳で生涯を閉じました。

2. 高遠にある江島ゆかりの場所

現在も伊那市高遠町には、江島が過ごした過酷な日々や、その後の足跡をたどることができる貴重な史跡が残っています。

① 絵島囲み屋敷(伊那市立高遠町歴史博物館に併設)

江島が実際に幽閉されていた屋敷の「見取り図」を基に、忠実に復元された建物です。資料館は屋敷があった場所ではありません。

  • 見どころ: 外側の忍び返し付きの板塀や、番人の詰所、そして江島が過ごした開閉できない「はめ殺しの格子戸」に覆われた8畳間など、当時の厳しい監視体制と質素な暮らしぶりが一目で伝わる構造になっています。隣接する歴史博物館のパネル展示と合わせて見学できます。

② 日蓮宗 蓮華寺(れんげじ)と「江島の墓」

高遠藩ゆかりの寺院であり、江島が静かに眠る墓所があります。

  • 見どころ: 江島は大奥時代から熱心な日蓮宗の信者でした。晩年、移動の制限が緩和されてからは、この蓮華寺に足を運んで参拝していたと伝わっています。境内には、江島が寺に通う際に使用したとされる「駕籠(かご)」が今も本堂に残されているほか、1992年には彼女の銅像も建立されました。裏山にある江島のお墓は、大奥の誇りを最後まで崩さなかった彼女を偲ばせる、静かで厳かな場所です。

③ 高遠城址(高遠城址公園)

現在は全国屈指の桜の名所として有名ですが、歴史的には江島が晩年に足を運んだ場所でもあります。

  • 見どころ: 免責が一部緩和された際、藩主たちの好意によって江島が城に上がり、藩の女中たちに躾の指導をした舞台がこの高遠城です。「絵島囲み屋敷」からも歩いて行ける距離にあります。

まさにその通りです。現代の歴史研究において、江島生島事件は単なる「大奥の女性と歌舞伎役者のスキャンダル」ではなく、幕府中枢の主導権をめぐる熾烈な政治闘争(政権争い)に江島が巻き込まれ、利用された(陥れられた)事件であるというのが定説になっています。

この事件の裏にあった、生々しい政治の構図を分かりやすくまとめました。

1. 誰と誰の対立だったのか?

当時、幕府内は大きく分けて「新井白石・間部詮房(まなべあきふさ)派」と「譜代大名(保守派)グループ」の2つに割れていました。

【正徳の治(改革派)】            vs          【譜代大名(守旧派)】

間部詮房(側用人)                            老中・譜代大名たち

新井白石(儒学者)                            (前将軍の正室・天英院の後ろ盾)

      ↓(連携)

月光院(7代将軍の生母)

      ↓(腹心)

★ 江島(大奥のトップ)

  • 改革派(間部・白石・月光院): 幼い7代将軍・徳川家継を擁し、門閥にとらわれない政治改革を進めていました。江島は月光院の右腕として、大奥側からこの政権を支えていました。
  • 保守派(譜代大名・天英院): 「新参者の間部や白石が、将軍の幼さをいいことにデカい顔をしやがって」と、激しい不満と嫉妬を募らせていました。彼らは、6代将軍の正室である天英院を担ぎ上げていました。

2. なぜ江島がターゲットになったのか?

保守派は何とかして間部や白石の政権を打倒したいと考えていましたが、政治の表舞台で彼らを失脚させる決定的な口実がありませんでした。

そこで目をつけられたのが、「大奥の最高権力者であり、月光院の最大の弱点」でもある江島でした。

江島をスキャンダルで失脚させれば、その主人である月光院の権威は失墜します。そうなれば、月光院の威光を背景に権力を握っていた間部や白石の政治生命もまとめて絶つことができる――。つまり、江島は「間部・白石政権を引きずり下ろすための、格好のターゲット」にされたのです。

3. 事件の「不自然さ」が物語る、仕組まれた罠

事件の広がり方や処分の厳しさを見ると、あらかじめ保守派(特に老中たちや、取り調べを行った町奉行)によってシナリオが用意されていた可能性が極めて高いと言えます。

  • あまりにも早すぎる情報連携 江島が木挽町(こびきちょう)の芝居小屋「山村座」で生島新五郎の歌舞伎を観て、宴会が長引いて大奥の門限に遅れたその日のうちに、すでに老中たちの耳に詳細な報告が入っていました。最初から泳がされ、監視されていた(尾行がついていた)と考えられます。
  • 異常な規模の連座(巻き込み) 江島や生島新五郎だけでなく、江島の兄や弟、山村座の座元、さらには大奥の女中たちなど、最終的に1,500人以上が処刑や流罪、追放などの処分を受けました。ただの「門限破り」や「密会」の処分としては異常であり、保守派が「月光院派の勢力を大奥から根こそぎ一掃するため」に、意図的に事件を大炎上させた証拠と言えます。

💡 江島の高遠流刑の背景

江島は罪人として高遠へ流されましたが、現地での彼女は愚痴一つ言わず、大奥時代の華美な服をいっさい拒んで木綿の服を着通し、ひたすら読経の生活を送りました。

政治闘争に敗れ、すべてを奪われて陥れられた身でありながら、取り調べでも最後まで月光院を庇い通し、流刑地でも誇り高く生きた姿は、心に強く響きます。

大奥における天英院(てんえいいん)と月光院(げっこういん)の対立は、まさに大奥史上最大の「代理戦争」を生み出す火種でした。

二人の確執は、単なる女性同士の嫉妬やマウンティングではなく、「名門のプライド」vs「寵愛による下剋上」という、お互いの存在そのものを懸けた権力闘争だったのです。

この二人のドロドロした関係性が、どのように江島生島事件へ繋がっていったのか、その詳細を掘り下げます。

1. 天英院と月光院:決定的な「3つの格差」

六代将軍・徳川家宣の崩御後、大奥は完全にこの二人を中心として二分されました。彼女たちの間には、埋めようのない深い溝(格差)がありました。

項目天英院(近衛熙子)月光院(お喜世の方)
出自・身分圧倒的高貴(公家・五摂家)
関白・近衛基熙の娘。朝廷とのパイプも太い絶対的な「正室」。
庶民・新参(武家・諸子)
もとは医師(または諸子)の娘。大奥に奉公に出て見初められた「側室」。
将軍との関係家宣の「正室」
格式は最高位だが、家宣との間に授かった子供は早世。
七代将軍・家継の「生母」
家宣の寵愛を一身に受け、唯一の世継ぎ(家継)を産む。
家宣崩御後の立場「主(あるじ)」としてのプライド
前将軍の正室(天英院)として大奥のトップに君臨。
「実権」の掌握
幼い将軍の母親(月光院)として、政治的にも大奥的にも実質的な最高権力者へ。

天英院からすれば、月光院は「出自の卑しい、ポッと出の側室」。しかし、子供のいない自分を差し置いて、月光院が「将軍の母」として大奥の主導権を握っていくことが、どうしても許せなかったのです。

2. 政治と連動した「代理戦争」の構図

この大奥トップ二人の確執に、表の政治家たちが乗っかったことで事態は深刻化します。

  • 【月光院派】新井白石・間部詮房 幼い7代将軍・家継を支えるため、月光院と密に連携。特に側用人の間部詮房は、夜間に月光院の寝所にまで入って相談を重ねていたため、「二人はデキているのではないか」という噂が立つほどでした(真偽は不明ですが、保守派はこれを通説として触れ回りました)。
  • 【天英院派】譜代大名・老中グループ 間部や白石の改革を面白く思わない保守派の男たちは、月光院派を失脚させるため、プライドを傷つけられて怒りに燃える天英院に接近し、後ろ盾となりました。

こうして、「天英院+譜代大名」vs「月光院+間部・白石」という、表裏一体の巨大な対立構造が完成します。

3. 江島生島事件へどう影響したのか?

この一触即発の状況下で起きたのが、月光院の最高側近である江島の「門限破り」でした。

天英院派(保守派の老中や奉行)は、この千載一遇のチャンスを絶対に逃しませんでした。

① 「月光院の不貞」へ飛び火させるための過酷な取り調べ

江島が捕らえられた際、町奉行らによる取り調べは異常なほど執拗でした。彼らが本当に白状させたかったのは、江島と生島新五郎の密会内容ではなく、「主君である月光院と、側用人・間部詮房の密通(不倫)の事実」でした。 「江島が手引きして、月光院と間部を会わせていたのだろう」と激しい拷問を交えて迫ったのです。江島さえ口を割れば、月光院も間部も一発で政治生命が終わり、天英院派の完全勝利になるからでした。

② 江島が守り抜いた「最後の線」

しかし、江島はどれほど過酷な取り調べを受けても、「月光院様と間部様にそのような事実は一切ございません」と言い張り、自らの不始末(門限破りと役者との交流)のみを認め、主君を命懸けで守り抜きました。

③ 政治的決着としての「大奥の権力シフト」

証拠が取れなかったため、月光院を直接処罰することはできませんでしたが、江島が遠島(のちに高遠へ流罪)となり、山村座が取り潰され、1,500人以上が連座したことで、月光院派の勢力は大奥から完全に駆逐されました。 これにより大奥の主導権は天英院の手へと戻り、月光院は一気に力を失って大奥内で孤立することになります。

4. 事件の結末と、その後の二人

江島生島事件によって天英院派が勝利を収めたかに見えましたが、歴史の皮肉はここから続きます。

事件のわずか2年後の正徳6年(1716年)、月光院の心の支えであった幼い7代将軍・家継が、わずか8歳で急逝してしまいます。これにより家宣の血筋は途絶え、間部詮房や新井白石も失脚しました。

次の八代将軍を誰にするかという局面で、再び二人は対立します。

  • 月光院は、尾張藩の徳川継友を推した。
  • 天英院は、紀州藩の徳川吉宗を推した。

結果、天英院が推した吉宗が八代将軍となり、天英院の権威は不動のものとなります。政治闘争としては、完全に天英院の勝利で幕を閉じました。

✍️ かつての権力争いの政敵が唯一の友となる皮肉な流れ

すべての勝負がついた後、晩年の二人はどうなったかというと、実は奇妙な和解を果たしています。

吉宗の時代になり、政治の表舞台から二人が退くと、かつての激しい憎しみ合いは薄れていきました。広大な大奥の中で「前々将軍の妻と側室」として、お互いだけが全盛期を知る生き残りとなったのです。

晩年は二人で一緒に芝居を観たり、お茶を楽しんだりする姿が記録に残っています。あれほど激しく争い、江島という一人の女性の人生を狂わせるきっかけを作った二人が、最後は穏やかに寄り添って余生を過ごした――。この歴史のコントラストは、時代も、人の心も時の流れと共に変わっていく、と云う事を表しているのではと思われます。

筆者:tanaka kazuhiro

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