武田・諏訪・保科の運命が交錯する隠れた名刹、高遠「建福寺」とは!
信州伊那谷の歴史の表舞台として知られる高遠。桜の名所・高遠城址公園のほど近くに、武田家、諏訪家、そして保科家の熱きドラマを今に伝える名刹があります。それが「建福寺(けんぷくじ)」です。

境内の一角には、戦国の悲劇のヒロイン・湖衣姫(由布姫)と、江戸の名君・保科正之の養父である保科正光の墓所が静かに並んでいます。一見、交わらなさそうな彼らの運命は、「高遠」という土地を通じて深く結びついていました。

1. 悲劇のヒロイン・湖衣姫(由布姫)と諏訪家の滅亡
建福寺を語る上で外せないのが、武田勝頼の生母である湖衣姫(歴史上は由布姫、諏訪御料人などと呼ばれる)の存在です。
彼女は高遠城主・諏訪頼高(または諏訪頼重)の娘として生まれました。しかし、武田信玄の信濃侵攻によって実家である諏訪家は滅ぼされます。仇敵であるはずの信玄の側室に迎えられた彼女は、のちに武田家最後の当主となる「勝頼」を生みました。
悲運の生涯を閉じた彼女の遺骨は、勝頼の愛念によってこの建福寺に葬られたと伝えられています。境内に佇む彼女の墓石(五輪塔)は、戦国の荒波に翻弄されながらも、最愛の息子・勝頼の成長を祈り続けた母の強さを今に伝えています。

2. 徳川家康が認めた武将・保科家と「建福寺」
湖衣姫の墓のすぐ近くに並ぶのが、高遠藩の礎を築いた保科正光(ほしなまさみつ)の墓です。
保科家はもともと信濃の国人領主で、武田信玄の信濃侵攻の際には高遠城に籠城して激しく抵抗しました。武田家の滅亡後は徳川家康に仕え、家康の関東移封に伴って一時土地を離れますが、関ヶ原の戦い以降に再び「高遠藩主」としてこの地に戻ってきます。
建福寺は保科家の菩提寺となり、正光をはじめとする保科一族の墓所が築かれました。武田家によって運命を変えられた「諏訪家の姫」と、武田家と戦い抜いた「保科家」の墓が時を超えて隣り合っている空間は、まさに高遠の歴史の奥深さを象徴しています。

3. 名君・保科正之を育てた「義父」としての保科正光
保科正光の歴史的最大の功績は、のちに会津藩主となり、幕府の最高権力者として江戸初期の政治を支えた名君・保科正之(ほしなまさゆき)の養父となったことです。
正之は、2代将軍・徳川秀忠の隠し子(三男)として生まれました。正妻の目を恐れた秀忠によって秘密裏に育てられる中、その養育を託されたのが、信義に厚く信頼の置ける武将であった保科正光でした。
正光は正之を実の子以上に愛し、文武両道の教育を徹底的に授けました。正光の遺言により、正之は保科家の家督を継ぎ、高遠藩主となります。正之の生涯にわたる謙虚で誠実な人柄と政治手腕は、この高遠の地と、養父・正光の教えによって育まれたのです。
【見どころまとめ】時を超えて並ぶ、運命の墓所
建福寺を訪れたら、ぜひ本堂の裏手にある墓所に足を運んでみてください。
- 湖衣姫(由布姫)の墓:気品と哀愁を漂わせる五輪塔。息子・勝頼への想いが眠る場所です。
- 保科正光の墓:名君・正之を育て上げ、高遠の発展を支えた名将の風格を感じる墓碑。
激動の戦国時代に敵味方として生きた人々の記憶が、江戸時代を経て、今は同じ境内で静かに調和しています。高遠城址の散策と合わせて訪れることで、高遠という土地が持つ「歴史の重み」をより深く肌で感じることができるでしょう。
建福寺(けんぷくじ) アクセス情報
- 住所:長野県伊那市高遠町東高遠
- アクセス:高遠城址公園から車で約5分(徒歩約15分)
- ※境内は静かな信仰の場ですので、参拝の際はマナーを守って見学しましょう。
筆者:tanaka kazuhiro
このカテゴリの新着記事


