2026.05.08

葛山城の戦いと落合氏:善光寺平をめぐる悲劇の全貌

葛山城(かつらやまじょう)の戦いは、武田信玄が北信濃の支配権を決定づけるために仕掛けた、極めて戦略的な重要性を持つ一戦でした。

葛山城 頂上主郭跡

葛山衆と落合氏の系譜

葛山衆(かつらやましゅう)とは

葛山城を本城とし、裾花川流域を治めた武士団の総称です。

  • 構成: 宗家の落合氏を中心に、桜氏・鑪(たたら)氏・広瀬氏・上屋(あげや)氏・立屋(たてや)氏といった一族が結集していました。
  • 落合一族: 滋野氏の流れ:家系は源平時代の武将根井行親の子落合兼行を祖とする、滋野氏の末裔。資料によって「落合二郎左衛門尉」「落合備中守」「落合治吉」と名が分かれますが、                                 これは当時の武士が官職名(備中守)や通称(二郎左衛門)を使い分けていたためです。一般的には、激戦を指揮した非運の城主として落合備中守の名が広く知られています。
  • 落合一族の先祖の源平時代の武将根井行親は木曽義仲に仕える四天王の一人として活躍し、俱利伽羅峠の戦いにも参戦しており、倶利伽羅峠に赴く途中裾花を通っている事から、                                      狭く切り立った裾花渓谷が天然の要害として使えると判断して、後にこの地に所領を構えたのかも知れません。
西側の切り堀から裾花渓谷や北アルプスを望む

 その後の葛山衆

落城後、生き残った一族は「葛山衆」として武田家臣に組み込まれました。しかし、1582年の武田氏滅亡後は上杉氏を頼って北信を去ったと伝えられています。

内部崩壊を招いた「静松寺」の調略・身内の裏切り

葛山城の強固な防御を崩したのは、武力だけでなく「調略(内部工作)」でした。

  • 内応者: 葛山中腹にある静松寺の住職が武田方に協力。さらに、城主(惣領)である落合二郎左衛門尉(治吉)の親族である落合遠江守・三郎左衛門の二人が、自身の地位向上のために信玄に内通しました。
  • 水の手の遮断: 静松寺から城内へ水を汲み上げる仕組みを住職が武田軍に漏らしたため、城は生命線である「水」を失いました。

壮絶な最期

  • 総攻撃: 1557年2月15日、馬場信房(美濃守)率いる武田軍が猛攻を仕掛けました。
  • 援将の奮戦: 村上氏の支族・小田切駿河守幸長も籠城し、凄まじい抵抗を見せましたが、最終的には室賀氏の被官によって討ち取られました。
  • 結末: 城主・落合治吉は火を放って自害。籠城した兵の多くが討ち死にする悲劇的な結末となりました。
裏側は姫谷となります

1. 戦略的背景:孤立した武田軍と「犀川の壁」

当時、裾花側の対岸の旭山城には武田家の配下にあった栗田氏が武田家の北信濃の最前線の拠点として詰めておりました。弘治元年(1555年)冬、第二次川中島の合戦の和睦条件として旭山城が破却されたことで、                          犀川以北における武田方の拠点は消滅しました。

  • 武田軍の窮地: 当時の武田軍の前線基地は屋代城・塩崎城に後退しており、善光寺平を見下ろす山城の多くは、依然として反武田勢力(上杉方)の手にありました。武田家にとって葛山城が大きな脅威であったのです。
  • 最優先目標: 信玄にとって、犀川を突破し、善光寺平を掌握するためには、東側の尼巌(あまかざり)城の攻略と、善光寺の背後にそびえる要衝・葛山城の奪取が不可欠な軍事目標となりました。如何に葛山城を重視していたかが察せられます。
長野市街や遠く志賀高原の景色が良く見えます

2. 葛山城の重要性:上杉方の守りの要

葛山城(城主:落合二郎左衛門尉)は、第二次川中島の合戦において以下の重要な役割を果たしていました。

  • 監視と防衛: 旭山城を初めとした武田家の拠点に対する「抑えの城」として機能。
  • 景虎の守護: 長尾景虎(上杉謙信)の陣を守る生命線。 この城を掌握することは、千曲川以西の善光寺平から上杉勢力を一掃することを意味していました。
旭山・善光寺平を望む

3. 信玄の「切り崩し」工作と内部崩壊

信玄は正面突破の前に、武士たちの結束を破壊する工作を個別に行いました。

  • 静松寺の調略: 城の中腹にある静松寺の住職を味方に引き入れ、城の弱点(水の手)を把握しました。
  • 葛山城の強固な防御を崩したのは、武力だけでなく「調略(内部工作)」でした。
  • 内応者: さらに、城主(惣領)である落合二郎左衛門尉(治吉)の親族である落合遠江守・三郎左衛門の二人を優遇措置を条件に内応させ、城主を孤立させました。
  • 自身の地位向上のために信玄に内通しました。

4. 弘治3年2月:初春の電撃襲撃と落城

弘治3年(1557年)2月、信玄は上杉軍が豪雪で動けない時期を見計らい、馬場信房(美濃守)に大軍を預けて急襲させました。その数17,000と言われております。

  • 激戦: 落合備中守(治吉)や一族に在地名を姓にした桜氏・鑪(たたら)氏・広瀬氏・上屋(あげや)氏・立屋(たてや)氏がおり、                                                                      宗家落合氏を含めた葛山衆と援将の小田切駿河守幸長は死力を尽くして戦いましたが、水の手を断たれ、城内に火をかけられる事態に陥りました。
  • 最期: 2月15日、多くの城兵が討ち死にし、葛山城は落城。城主の落合氏も戦死しました。

5. 葛山城にまつわる伝承と遺構

伝説:「姫谷」と「白米城」

姫谷(ひめがや): 逃げ場を失った女性たちが身を投げた谷。今でも哀しい鳴き声が聞こえるという怪談が残っています。

白米城伝説: 水を断たれた際、白米を馬の背に流して水があるように見せかけ、敵を欺こうとした切ない伝説が残っています。

  • 現在の葛山城跡: 標高822m。本丸跡は小公園となり、旭山城・大峰城・飯綱山、そして信玄が渇望した川中島平を一望できる絶景の地となっています。
飯縄山が良く見えます

まとめ:落合氏の興亡

落合氏は滋野氏の一族であり、葛山城を本城として裾花川流域を治めた有力な武士団「葛山衆」の宗家でした。戦国時代の上杉家と武田家による信濃での領土争奪の争いによる信濃の豪族の分断そして一族は分断され、滅亡という悲劇的な最期を迎えました。もし、信濃をまとめる強い支配者がいなかった事が悲劇の要因の一つとも思えます。生き残った者たちは「葛山衆」として武田家臣となり、時代の荒波を生き抜いていくことになります。

葛山城の解説があります

馬場信房(美濃守)のその後

武田24将の1人として信玄の時代から武田家を支えてきた武将の1人です。

葛山城攻めでは武田軍の大将として活躍しました。しかし、長篠・設楽原の戦いでしんがりを務め勝頼を退却させた後、討ち死にしました。敵将に首を獲らせたとも、自害したとも言われてますが、                                             何れにしても武人として生きる者の宿命。時代の定めとは言え悲しい物があります。

設楽原・馬場信春公の墓

静松寺(じょうしょうじ)の数奇な運命

真田幸隆の調略により武田方に協力した静松寺ですが、現在は武田信玄の供養塔があるなど、武田氏との縁が深い寺として知られています。落合氏にとっては「裏切りの寺」かもしれませんが、                                                 歴史のうねりの中で生き残るための苦渋の選択があったのかもしれません。しかし信濃という同じ国の領主として団結して戦う流れにならず、                                                                     仲間割れの様な状況が売った相手だけでなく自分自身も不幸になる結果となったのではなかろうかと思われてならないのですが・・・・

この戦の後、静松寺の住職が落合一族の亡霊を見る様になり狂死する。という

伝説が残ってます。生き残る為の苦渋の選択だったとは言え、領主を裏切った結果、恨まれた事による結果が物語として遺されたのではないのでしょうか。

筆者:

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