この記事では、武田信玄が天下取りを目指して行ったとされる「西上作戦」(元亀3年/1572年)において、秋葉街道(国道152号線)が果たした軍事上の重要な役割と、その作戦の真の目的、そして武田家の命運を分けた結末を深掘りします。

多くの軍勢を動かした信玄が、なぜこの山深いルートを選んだのか?その裏側にある戦略と経済的な思惑に迫ります。

秋葉街道の難所 青崩峠 

1. 「西上作戦」の真の目的と動機:後継者に盤石な国を残すため

元亀3年(1572年)10月、武田信玄は総勢約3万とも言われる大軍を率いて、徳川家康の領地である遠江(とおとうみ)・三河方面へ向け侵攻を開始しました。

1-1. 西上作戦の真の動機

信玄が西上作戦を決行した最大の目的は、足利義昭からの要請という大義名分のもと、織田・徳川領の石高(収入)を奪取し、武田家の経済基盤を一気に強化することにあったと推測されます。これに加えて、以下の個人的かつ切実な動機があったと考えられます。

  • 後継者への遺産作り: 自身の老いや病の衰えを自覚していた信玄は、死期が近いことを察していました。豊かではない甲斐の国の経済力を一気に引き上げ、後継者である勝頼やその子(信勝)に盤石な領国を遺すことを、人生を賭けた大戦を決心した大きな要因だったと考えられます。
  • 家臣への恩賞確保: 戦に勝利した暁には、家臣・家来に対する十分な恩賞を出すことで、士気や忠誠度を高め、武田家の安定を図る必要がありました。

1-2. 侵攻に至った5つの戦略的・経済的要因

  • 川中島の戦いの終結: 宿敵・上杉謙信との北信濃の国境線が一応定まり、背後の憂いが解消されたこと。
  • 駿河国の支配: 桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にした後、駿河国が支配下に入り、尾張・三河が直接的な標的になったこと。
  • 反信長勢力との連携: 足利義昭の呼びかけによる信長包囲網に呼応することで、効率的な攻略を目指せたこと。
  • 北条家との和睦: 北条氏政と盟約を結び、東からの侵略懸念が解消されたこと。
  • 兵站(武器・物資)調達の確保: 鉄砲、火薬などの軍需物資を扱うなどの商業圏に直接アクセスするため、尾張・三河の支配が必要だったこと。
川中島古戦場史跡公園 武田信玄・上杉謙信 一騎討像

2. 西上作戦における秋葉街道(国道152号線)の役割と戦略ルート ⚔️

武田軍の進軍ルートは大きく二手に分かれ、信玄の本隊が進んだのが秋葉街道、別動隊が美濃方面へと進みました。

2-1. 武田信玄本隊の進軍ルート

信玄の本隊(約22,000人)は、甲府から金沢峠を通り高遠城を経由し、飯田城から秋葉街道(国道152号線)を南下し、徳川軍の重要拠点である二俣城を目指しました。

二俣城 (浜松市正直観光協会サイトより転載)
  • 信玄本隊の経路の要点: 高遠城 → 飯田城 → 秋葉街道(国道152号線) → 二俣城

秋葉街道は、信濃と家康の本拠地である浜松を最短距離で結ぶルートであり、軍事侵攻において迅速な部隊の移動と兵站の維持に不可欠な幹線ルートでした。

2-2. 別動隊 (山県昌景・秋山虎繁) の戦略的進軍

信玄本隊が遠江の中心を目指す一方で、別動隊は織田信長との連携を断ち、戦略的な要衝を抑える重要な役割を担いました。

部隊経路の要点役割と行動
信玄本隊高遠城 → 飯田城 → 秋葉街道(国道152号線) → 二俣城遠江の中心部を直接攻略し、徳川家康を牽制。
別動隊 (山県昌景・秋山虎繁)高遠城 → 美濃の岩村城長篠城 → 二俣城方面へ合流織田・徳川間の連携を遮断し、側面を固める。

秋山虎繁・山県昌景の動き

約8,000人の別動隊は、高遠城を発ち、まず美濃の岩村城攻略に向かいます。これは、おそらく現在の 国道153号線の街道から平谷村を経由し、国道418号線にあたる街道を通って岩村城へ向かったものと推測されます。

岩村城(岐阜の旅ガイドより転載)
  • 11月初旬に岩村城を攻め落とした後、山県昌景の部隊(5,000人)は国道257号線にあたる街道を 南下し、徳川軍の重要拠点の一つである長篠城を攻め落とし、次の重要拠点である二俣城方面へ兵を進め、信玄本隊との合流を目指しました。

3. 成果と結末:三方ヶ原・野田城の戦いと信玄の最期 🌙

3-1. 三方ヶ原の戦いとその後の武田軍の動き

主要な戦闘は、二俣城の攻略、徳川家康軍を撃破した三方ヶ原の戦い(12月22日)でした。

1. 三方ヶ原の戦い(1572年12月22日):圧勝の裏側

三方ヶ原の戦いは、武田軍約27,000人に対し、徳川・織田連合軍約11,000人が激突した戦いで、武田軍の一方的な圧勝に終わりました。

1-1. 徳川家康の「神を捨てた」逃走と逸話

信玄が浜松城を無視して西進する動きを見せたため、焦った徳川家康が、**「魚鱗の陣」と推測される武田軍の強大な陣形に対し、「鶴翼の陣」**で迎撃を試みましたが、結果は徳川軍の大敗に終わります。

Wikipediaより転載
  • 「しかみ像」の真実: 敗走した家康は、あまりの恐怖と敗北の屈辱に、馬上で脱糞したという逸話が残っています。後に家康は、この時の自身の醜態を戒めとするため、絵師に命じて**「しかみ像」**(顔をしかめた肖像画)を描かせたとされています。これは、家康の生涯の教訓となり、後の武田家滅亡への執念を生むことになります。
  • 三方ヶ原の戦いその後: 大敗を喫し敗走する徳川軍を武田軍は追撃しました。勢いに乗り浜松城を包囲し徳川軍殲滅といきたいところでしたが、掛川城からの援軍の到着により2,500人ほどの徳川軍が浜松城近くに陣を構えたため、武田軍は深追いはせずに近くの刑部城に移動します。この理由として、兵力の温存、すでに病状が悪化していた信玄の体調への配慮、そして**「冬期における兵糧の調達と維持の限界」**があったと考えられます。
  • 年越しと信玄の体調: こうして年を越し、1573年(元亀4年)の新年を迎えます。甲府を発ってから約3カ月が過ぎましたが、厳しい寒さの中、野宿に等しい移動生活を続けていた武田軍の兵の疲弊は日を追うごとに増していきました。特に、既に病に侵されていた信玄の体には、この厳寒の行軍は命を削る行軍だったと推測されます。

3-2. 野田城包囲そして攻略

1573年(元亀4年)1月の初めに武田軍は進軍を開始して奥三河の野田城を目指します。

野田城跡 新城市ホームページより転載
  • 野田城攻めの戦略的意図の考察: 戦略的には、徳川家康が籠る浜松城を包囲攻撃するのが先と思われますが、恐らく容態が悪化した信玄が、病状が回復しない中で少しでも先に(京の都)に進めるとの判断から、重要拠点である野田城攻めに進路を変えたのではないかと考えられます。
  • 野田城攻略: 野田城に到着した武田軍は、城主・菅沼定盈に対し降伏を呼びかけますが、城側はこれに応じませんでした。そこで武田軍は、金山衆を動員して城内の井戸の水を絶つという戦術を用い、野田城を1573年(元亀4年)2月10日に降伏させました。

3-3. 信玄の死と甲斐への帰還:詳細な最期と没地考察

野田城攻略後、信玄の容態は急激に悪化し、長篠城で養生するも、長期間の厳寒の行軍により病状が回復せず、家臣団の判断により甲斐への撤退が決定されました(1573年4月初旬)。

  • 撤退ルート: 長篠城から鳳来寺の脇を通り、設楽町を経て信濃の根羽村へと進軍しました。
  • 信玄の最期: しかし、信玄は甲府へ生きてたどり着くことは叶わず、1573年(元亀4年)4月12日、西上作戦の撤退行の途上、享年53歳で帰らぬ人となりました。

📌 没地・荼毘の地に関する考察

亡くなった地については明確な記録がなく諸説あり、信玄塚がある根羽村と、武田信玄公灰塚供養塔や火葬場跡とされる場所がある阿智村駒場の二説が有力説として存在します。

本記事では、以下の通りに推測します。

項目考察される内容理由・背景
息を引き取った地根羽村の信玄塚のあたり根羽村で信玄は亡くなったと思われる。具体的な埋葬の記録がなく、亡くなった場所である事を云い伝えるための塚と考えらえれる。
亡骸を荼毘に付した地阿智村駒場の長岳寺駒場には灰塚供養塔、火葬場跡とされる場所があり、長岳寺は武田家と縁が深く、信玄も出陣の際に立ち寄っているため。もし駒場で亡くなり火葬されたなら、根羽村の塚は不要になる。

信玄は根羽村信玄塚付近で亡くなり、阿智村駒場の長岳寺で荼毘に付されたと推測します。 武田軍は、信玄の死を秘匿しつつ、静かに甲斐を目指しました。


4. 西上作戦の経済的考察と武田家にもたらした決定的な影響

信玄の死により作戦は終了し、目標であった大規模な領土(石高)獲得は達成されませんでした。

4-1. 莫大なコストと成果(リターン)の欠如

  •   莫大なコスト:軍事作戦にかかった費用

半年間の軍事作戦には、現在の貨幣価値で計算すると兵糧費だけで約15億円、刀、槍、甲冑などの武器・軍備費用を合わせると、半年間の軍事作戦には、総額160億円を超える莫大な費用がかかったと推測されます

 

・ 成果(リターン)の欠如

織田・徳川の所領が約300万石あり、仮に尾張・三河の領地の3分の1の100万石奪取出来れば現在の価値に換算すると(6万円/1石×100万石)約600億円の収入増に相当と計算できますが、代わりに得られたのは、多額の戦費の支出と、わずかな城の獲得のみでした。

 目標であった尾張・三河の領地奪取は叶わず、代わりに得られたのは、多額の戦費の支出と、わずかな城の獲得のみでした。

この経済的な失敗と、信玄というカリスマの喪失は、家臣団に大きな失望と動揺をもたらし、後の武田家滅亡へと繋がる大きな要因となったのです。

 

4-2. 偉大なカリスマの喪失とその影響

武田家の最大の柱であった信玄を失ったことは、武田家全体の求心力と指導力を崩壊させました。

  • 後継者・勝頼への重圧: 信玄は、自身が築いた盤石ではない領国を、側室の湖衣姫の息子勝頼に託すことになりました。
  • 家臣団の分裂と不安: 信玄の死によって未来への不安や絶望感を抱き、結束力が低下しました。特に古参の一部の重臣たちは、勝頼の指導力に疑問を抱き、内部対立の火種を抱えることになります。
  • 軍事力・外交力の低下: 信玄という希代の軍略家を失ったことで、武田家の軍事的優位性は失われました。また、信長包囲網の盟主が倒れたことで、外交的な連携も崩壊し、武田家は孤立を深めたのでした。

4-3. 織田・徳川への明確な対立と決着

  • 徳川家康の成長: 三方ヶ原での敗北は、家康に大きな教訓と屈辱を与え、復讐心と戦略的な成長促しました。家康はこれを境に、武田対策に全力を注ぐことになります。
  • 「長篠の戦い」への布石: 信玄亡き後、勝頼が再度長篠城の奪還を目指して侵攻した**「長篠の戦い」**(1575年)は、この西上作戦の延長線上にあります。信玄が遺した疲弊した財政と士気の低い兵力では、織田・徳川の連合軍を前に、武田家は決定的な敗北を喫し、滅亡への道を決定づけました。

結果として、西上作戦は、戦国の雄・武田家が自ら寿命を縮め、滅亡へと歴史の舵を切った、最大の賭けであり、最大の失策となってしまったと言えるでしょう。

信玄像 (甲府観光ナビホームページより転載)