天下の水城・高島城:松本城に劣らぬその実体を探る

1. 高島城の歴史と築城の経緯
豊臣秀吉の命による「諏訪の新しい拠点」
戦国時代、諏訪地域は代々諏訪氏(諏訪大社の大祝家)が治めており、かつての本拠地は「上原城」でした。しかし、織田信長による甲州征伐やその後の武田家滅亡など、激しい動乱に巻き込まれます。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が全国を統一すると、徳川家康を関東へ移封させます。この際、関八州(関東)の家康に対する監視の拠点として、秀吉の家臣である日野根高吉(ひのね たかよし)が諏訪に入封しました。
「戦国時代の戦闘」という観点で見ると、高島城には次のような歴史的背景があります。
- 完成したのは「戦乱が終わる直前」 高島城が着工した天正20年(1592年)〜慶長3年(1598年)は、すでに豊臣秀吉によって全国がほぼ天下統一された後(近世)です。そのため、高島城は「戦国時代の激しい合戦を実際に経験した城」ではありません。
- 武田信玄の時代の「戦国時代の城」は上原城 諏訪地方で戦国時代真っ只中の合戦(武田氏対諏訪氏など)の舞台となっていたのは、高島城からほど近い山の上にあった「上原城(うえはらじょう)」などの山城でした。
つまり、高島城は「戦国時代の激戦を生き抜いた城」ではなく、「戦国時代の反省と技術の粋を集めて作られた、実戦で攻め落とすのが極めて困難な完成型の要塞」という位置づけになります。
7年の歳月をかけた築城
高吉は、山城だった上原城ではなく、交通や物資輸送に優れた諏訪湖畔の低地を選びました。 文禄元年(1592年)に起工し、慶長3年(1598年)に完成。これが現在知られる「高島城」です。織田・豊臣流の最新鋭の城郭技術(高い石垣や天守の建造)を用いて建てられました。
築城当時(1590年代)の高島城は、諏訪湖と河川を天然の要害(堀)として完璧に組み込んだ最強の水城でした。
- 背後はすべて水(湖) 城の南側と西側が直接諏訪湖に接していたため、大軍で城を包囲しようとしても、湖側からのアプローチは船を使うしかありませんでした。

- 陸路からのアプローチが極めて限定される 城の東と北も河川と水堀で固められていたため、敵が攻め込めるルートは狭い陸路に限られていました。攻撃側は勢力を行使しにくく、守る側にとっては狙いを定めやすい(少数で多数を防げる)構造でした。陸路は別地図に示した並木街道になります。三之丸跡を通り旧甲州街道に通じる道です。

- 鉄砲戦を意識した構造 松本城(深志城)が元々武田氏などの時代からの山城・平城の改築を重ねているのに対し、高島城は豊臣秀吉の命により、鉄砲伝来後の「最新鋭の織豊系城郭」としてゼロから設計されました。高い石垣や鉄砲狭間(さま)の配置など、火器を用いた戦いに極めて強い作りになっています。
この「水に守られた要塞」という意味では、松本城以上に攻め落とすのが困難な城だったと言えます。

徳川の世と諏訪氏の復活
関ヶ原の戦い(1600年)の後、日野根氏は下野国(栃木県)に移封となります。代わってこの地に戻ってきたのが、旧領主であった諏訪頼水(すわ よりみず)でした。 以後、明治維新まで代々諏訪氏(高島藩)の居城として親しまれ、一度も城主が変わることなく明治の廃城令を迎えます。
2. 他にない!高島城の3大特徴
① かつては日本三大水城!「諏訪の浮城」
現在の高島城は陸地に囲まれていますが、築城当時は城の南側と西側が直接諏訪湖に面し、東と北には河川の水を引き入れた水堀が巡らされていました。 湖上に浮かんで見えるその美しい姿から「諏訪の浮城(うきしろ)」と称され、日本三大水城(一般的には高松城・今治城・中津城などですが、古くは高島城を含める説もあります)や「日本一の湖城」として恐れられ、また愛されました。
※豆知識 江戸時代中頃に諏訪湖の干拓が進み、湖岸線が遠ざかったため現在の姿になりましたが、城塞としての「水に守られた構造」は今も堀の配置に残っています。
② 全国でも激レア!「柿葺(こけらぶき)」の天守
多くの城の天守屋根は「瓦葺き」ですが、高島城の天守は木材の薄板を重ねた「柿葺(こけらぶき)」で葺かれていました(※現在の復元天守は銅板葺きで当時の姿を再現しています)。
- なぜ木葺きだったのか? 信州諏訪の極寒の冬においては、寒さで瓦が凍りついて割れてしまう(凍害)懸念がありました。そのため、あえて寒冷地に強い木の板を葺く構造が採用されたと考えられています。寒冷地ならではの珍しい特徴です。
③ 軟弱地盤を克服した「大樹のいかだ(筏敷き)」
湖畔の湿地帯に巨大な石垣を積むため、当時の技術としては画期的な工法が使われました。 底なしの泥地盤の上に、大木(松の丸太など)を格子状に組んだ「筏(いかだ)」を沈め、その上に石垣を積み上げる「筏敷き(いかだしき)」という基礎工法です。
水の中では木材が腐りにくいという性質を上手く利用しており、数百年経った今でも石垣が沈下・崩壊することなく美しい姿を保ち続けています。

廃城・高島城消滅、そして公園としての再生
明治政府の政策方針により1871年(明治4年)に廃藩置県が施行されて城郭の取り壊し撤去が決定。1875年(明治8年)には天守閣も撤去されて城の姿は跡形も無くなりました。
翌年の1876年(明治9年)本丸跡が高島公園として生まれ変わりました。
住民の強い要望により1970年昭和45年に天守閣、冠木門、角櫓が再建されました。
要するに天守閣の辺り、高島城の一部分を見ているだけであり、実際には遥かに広大な城郭だったと云う事になります。そしてそれらの城郭が完全に諏訪湖の湖上に存在するというその姿は唯一無二の物だったと想像されます。

筆者:tanaka kazuhiro
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