紅葉の父親である伴野笹丸という人物が伴野善男の子孫と言われていますが、
伴野善男が歴史上有名な「応天門の変」の首謀者とされており、応天門の変と
それにつながる「薬子の変」について解説します。
序章:藤原北家の大躍進を支えた「薬子の変」
応天門の変より約50年前の810年、藤原氏の中での勢力図を塗り替える大きな事件**「薬子の変(平城上皇の変)」**が起こりました。
1. 事件の構図:兄弟ゲンカと藤原家の争い
当時のトップ争いは、平城(へいぜい)上皇と、その弟の嵯峨(さが)天皇による対立でした。 この時、上皇側について暗躍したのが、藤原式家の藤原薬子と、その兄の藤原仲成でした。
2. 結果:式家の没落と北家の浮上
この争いは嵯峨天皇側の勝利に終わります。
- 敗北した式家: 薬子は毒を飲んで自害、仲成は射殺され、藤原式家は一気に没落しました。
- 勝利した北家: 逆に、天皇側でテキパキと働いて信頼を勝ち取ったのが、藤原北家の藤原冬嗣(良房の父)でした。
3. 歴史への影響:ここからすべてが始まった
この事件をきっかけに、嵯峨天皇は自分専用の秘書官室である**「蔵人所(くろうどどころ)」**を設置し、そのトップ(蔵人頭)に冬嗣を任命しました。
これにより、藤原北家は「天皇の最も近くにいる存在」となり、後の良房による摂関政治(応天門の変)へとつながる最強のパスを手に入れたのです。
式家の自滅: 薬子の変でライバルの「式家」がいなくなった。
北家の独走: 天皇の信頼を独占した「北家」が政治の主導権を握った。
応天門の変(866年)のまとめ
「応天門の変」とは、一言でいえば**「藤原氏がライバル(式家)を追い落とし、北家の 独裁体制(摂関政治)を確立した事件」**です。

1. 事件の背景:藤原氏の野望
藤原北家の藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた子を次の天皇にする**「外戚(がいせき)関係」**を築いて権力を握ろうとしていました。その過程で、邪魔な他氏族を排除していく必要がありました。
2. 事件の発生:放火事件と犯人探し

- 放火:866年 朝廷の正門である「応天門」が火事で焼失しました。
- 陰謀: 大納言の伴善男(とものよしお)が放火したと言われています。
- 「犯人は左大臣の源信(みなもとのまこと)だ!」と嘘の告発をします。
応天門の変:真相解明のきっかけ
事件の犯人が発覚した経緯は、平安時代の有名な絵巻物**『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』に生き生きと描かれています。実は、国家を揺るがす大事件の解決の糸口は、意外にも「子供同士のケンカ」**でした。

1. 子供のケンカに親が参戦
ある日、応天門の放火犯を知っている**舎人(とねり:下級役人)の子供と、伴善男の部下である出納(しゅつのう)**の子供がケンカを始めました。 すると、そこへ現れた出納が、自分の子供に加勢して舎人の子供をボコボコに叩き伏せてしまいます。出納は主君・伴善男の威光を傘に着て、かなり威張った態度をとっていたようです。
2. 怒った父親の暴露
自分の子供がひどい目に遭わされたのを見た舎人は、あまりの怒りに耐えかねて、それまで隠していた秘密を叫んでしまいました。 「あの出納の主(伴善男)こそが、応天門に火をつけた犯人なのだ!私はこの目で見たんだぞ!」
3. 事件の急展開
この「怒りの暴露」が噂となり、ついに朝廷の耳に入ります。これを受けて検非違使(警察)が舎人を厳しく取り調べたところ、ついに伴善男の犯行が裏付けられることとなりました。このように、「子供のケンカ」という身近な出来事が、藤原氏による摂関政治の幕開けを決定づけたというのは、歴史の非常に面白い皮肉と言えますね。
3. 事件の結果と影響
この事件により、朝廷の勢力図が激変しました。
- ライバルの失脚: 犯人とされた伴氏、連座した紀氏といった古くからの有力貴族が没落しました。
- 良房の勝利: 事件を解決に導いた形となった藤原良房は、圧倒的な権力を手にしました。
- 摂政の誕生: 866年、良房は天皇が成人しているにもかかわらず、**臣下として初めて「摂政」**に就任しました。
この事件によって、藤原氏による**「他氏排斥(ライバル追い落とし)」**が完了しました。
- 承和の変(橘氏・伴氏を攻撃)
- 応天門の変(伴氏・紀氏・源氏を排除)
この2つの事件を経て、藤原氏が政治を独占する**「摂関政治」**の黄金時代へとつながっていくことになります。
豆知識:実は良房が黒幕? 最終的に一番得をしたのが藤原良房だったため、現代の歴史学者の間でも「実は良房が裏で糸を引いていたのではないか?」という説が根強く残っています。