江戸時代、北国街道(現在の国道18号に近いルート)の脇道として整備されました。

  • ショートカットの利便性: 本来の北国街道は、善光寺から牟礼(むれ)を経て野尻へと向かいますが、このルートは山を大きく迂回します。坂中峠を越える「坂中道」を使えば、善光寺から越後(新潟)方面へ約2里(約8km)も短縮できたため、旅人や物資の輸送に重宝されました。
  • お伊勢参りと善光寺参り: 「一生に一度は善光寺参り」と言われた時代、新潟方面からやってくる参拝客の多くがこの峠を越えていきました。

2. 峠の茶屋と賑わい

最盛期には、峠の頂上付近に数軒の茶屋があり、名物の「餅」などが売られていたと伝えられています。

  • 峠の両側には「坂中新田(長野市側)」と「坂口新田(飯山市側)」という集落があり、旅人の世話や荷物の運搬(伝馬)を担っていました。
  • 道中には今も石仏や石碑が残っており、当時の旅人たちが道中の安全を祈っていた様子を今に伝えています。

3. 戦国時代の「軍道」説

はっきりとした記録は少ないものの、位置関係から、戦国時代には上杉謙信の軍勢が川中島へ進軍する際、あるいは撤退する際の隠れたルート(軍道)として利用された可能性も指摘されています。

4. 明治以降の衰退と「坂中トンネル」

明治時代に入り、近代的な道路整備が進むと、険しい峠道は次第に敬遠されるようになりました。

  • 鉄道の影響: 明治21年(1888年)に現在の信越本線が開通。鉄道は坂中峠を避けて敷設されたため、人の流れが大きく変わりました。
  • 現在の姿: 現在、峠の直下を長野県道60号線の坂中トンネルが貫いています。かつての古道は「歴史の道」として整備されている箇所もありますが、多くの部分は静かな山道に戻っています。

豆知識:幻の「坂中そば」

かつてこの付近では蕎麦の栽培も盛んでした。今でも地元の有志によって、歴史ある峠道を歩くイベントなどが開催されることがあります。

もし現地に行かれる予定があれば、旧道の入り口付近にある**「馬頭観音」**などの石碑を探してみると、当時の旅人の息遣いを感じられるかもしれません。

江戸時代における坂中峠とは

江戸時代の坂中峠は、一言でいえば**「幕府公認の裏街道」**として、驚くほどの人と物資で溢れていました。

1. 驚きのショートカット効果

江戸時代、メインストリートは「北国街道(ほっこくかいどう)」でしたが、坂中峠を通る道は**「坂中道(さかなかみち)」「善光寺近道」**と呼ばれていました。

  • 距離の差: 本街道(牟礼経由)を行くよりも、坂中峠を越える方が**2里(約8km)**も短かったんです。
  • 旅人の心理: 昔の人は1日10里(約40km)歩くのが普通でしたから、2里の短縮は「数時間早く着ける」ことを意味します。そのため、急ぎの旅人や参拝客はこぞってこの峠を選びました。

2. 「塩の道」としての重要な役割

この峠は、越後(新潟)の海で作られた「塩」を信州へ運ぶ**「塩の道」**の重要ルートでもありました。

  • 牛方(うしかた)の往来: 重い塩俵を背負った牛を引き連れて峠を越える「牛方」たちが絶え間なく行き交っていました。
  • 物流の拠点: 峠の入り口にあたる坂中(飯山側)や若槻(長野側)には、荷物を積み替えるための施設や、牛馬を休ませる場所が整っていました。

3. 峠の暮らしと「おもてなし」

峠の頂上やその前後には、旅人を支える小さなコミュニティがありました。

  • 峠の茶屋: 頂上付近には茶屋があり、名物の**「餅」「酒」、それに「甘酒」**などが振る舞われていました。険しい坂を登りきった旅人にとって、ここでの一杯は格別だったはずです。
  • 名物の「力餅」: 坂中峠の茶屋で出されていたのは、一口サイズの**「力餅」**だったと伝えられています。北国街道の他の峠(碓氷峠など)でも餅が名物でしたが、坂中峠の餅も「これを食べないと峠を越えられない」と言われるほど旅人に愛されていました。
  • 茶屋の場所: 現在の坂中トンネルの真上あたり、旧道の頂上付近に**「茶屋床(ちゃやどこ)」**と呼ばれる平坦な地名が残っています。ここがまさに茶屋があった場所です。
  • 茶屋の役割: 単なる休憩所だけでなく、冬場には雪道を歩く旅人に「かんじき」を貸し出したり、天候を教えたりする**「峠のシェルター」**のような役割も果たしていたようです。
  • 助け合いの「伝馬(てんま)」: 坂中新田などの集落は、幕府から「旅人の荷物を運ぶ手伝い」を命じられていました。その代わり、年貢が少し免除されるなどの特権もありましたが、急勾配の荷運びは相当な重労働だったようです。

4. 峠で売られていた「お土産」と「名物」

坂中峠のような険しい山道の茶屋では、今のように「形に残る工芸品」よりも、その場で力をつける**「消えもの(食べ物)」や、旅を続けるための「実用品」**が主役でした。

  • 坂中の力餅(ちからもち): これが最大の名物でした。江戸時代の旅日記などには、峠の茶屋で餅を食べて一息つく様子がよく描かれています。お土産として持ち帰るというよりは、その場で食べてエネルギーを補給する「自分へのご褒美」でした。
  • 善光寺のお守りと「鳩車(はとぐるま)」: 峠を越えて善光寺に辿り着いた旅人が、帰り道に坂中峠を越える際によく持っていたのが、善光寺の**「牛に引かれて善光寺参り」のお守りや、郷土玩具の「鳩車」**です。これを背中の荷物に括り付けて、故郷への自慢話と一緒に持ち帰りました。
  • 予備の「わらじ(草鞋)」: 坂中峠は急勾配で岩も多いため、わらじの消耗が激しかったんです。茶屋では必ずと言っていいほど新しいわらじが売られており、旅人たちはここで履き替えて、ボロボロになったものは峠に捨てていきました(これが後の堆肥になったそうです)。

5. 信仰と石仏

今も旧道を歩くと、江戸時代に建立された石碑や石仏が数多く残っています。

  • 馬頭観音: 荷運び中に亡くなった牛馬を供養し、道中の安全を祈って建てられました。
  • 道しるべ: 「右 ぜんこうじ道」などと刻まれた石柱が、迷いやすい山道で旅人を導いていました。

6. 役人の取り締まり

実は、幕府にとってここは「脇道」だったため、本来は重要な荷物や大名は本街道を通るのが原則でした。しかし、あまりの便利さに、役人たちも「見て見ぬふり」をしたり、時には自分たちも近道として使ったりしていたという、人間味あふれる記録も残っています。