1. はじめに:織田信忠という人物

織田信忠は、戦国時代の激動期において、織田信長の嫡男としてその生涯を駆け抜けました。彼は単なる名目上の後継者ではなく、父信長からその才覚を認められ、織田家の次代を担うべく着実に実績を積み上げていった人物です。その生涯は、信長の天下統一事業と深く結びついており、特に武田氏を滅ぼした信濃攻めでの活躍は、彼の軍事的能力を示す重要な局面として評価されます。

誕生と幼少期

織田信忠は弘治3年(1557年)、織田信長の長男として尾張清洲城に生を受けました。彼の母は信長の側室である生駒氏であり、信長の次男である織田信雄は同母弟にあたります。信長と正室の濃姫との間に子がなかったため、生駒氏が事実上の正室であったとも考えられています 。幼少期にはその顔立ちから「奇妙丸」と名付けられたと伝えられています 。

元亀3年(1572年)、信忠は岐阜城で元服を迎えました。同年には早くも初陣を飾り、父信長に従って北近江の浅井長政との戦闘に参加し、実戦の経験を積んでいきました 。この初陣は、彼が織田家の後継者として軍事的な道を歩み始めた最初の大きな一歩となりました。

家督継承と織田家における立場

天正3年(1575年)11月、信忠は信長から家督を譲渡され、信長の正室である濃姫の養子となりました 。この家督継承に伴い、岐阜城も彼に譲られ、従来の尾張と東美濃の支配権もそのまま引き継がれました 。この年は信忠にとって官職面でも大きな進展があり、3月28日に出羽介に任官し、6月1日には正五位下に、そして11月7日には秋田城介に叙任されるなど、その地位は着実に上昇しました 。

戦国時代は実力が非常に重視される時代であり、信忠は単に長男であるというだけでなく、織田家の後継者としてふさわしい能力を備えていたと評価されています 。天正3年5月の長篠の戦いでは、信長とは別に本陣を置くなど、後継者としての地位が際立っていました 。これは、長島攻めで一門衆多数が討死した反省から、本陣を別々にした可能性も指摘されており、信長が信忠の安全と独立した指揮能力の育成に配慮していたことがうかがえます。記録によれば、信忠が連枝衆(一門衆)の先頭として80騎を率いたのに対し、次点の織田信雄が30騎、信長の弟である織田信包や神戸信孝は10騎であったと伝えられており、信忠がいかに特別扱いされていたかが明確に示されています 。

これらの事実は、信長が信忠を単なる嫡男としてではなく、その軍事的な才能と指揮能力を高く評価し、織田家の未来を託すに足る人物として計画的に育成・抜擢していたことを強く示唆します。家督継承は、信長の合理主義に基づいた戦略的な判断であり、信忠自身もその期待に応えるだけの能力と実績を有していたと言えます。これは、信忠が「凡庸な二代目」という従来の評価を覆す重要な根拠となります 。信長が信忠に家督を譲ったのは、織田家の組織的な継承プランの一環であり、信忠の能力がそのプランを支える基盤であったことを物語っています。これは、信長が天下統一後の統治体制を見据えて、後継者の育成と権限委譲を周到に進めていた可能性を示唆しています。

甲州征伐前夜までの実績

信忠は家督継承後も、その軍事的な才能を遺憾なく発揮し、実績を積み重ねました。天正5年(1577年)には紀伊の雑賀攻めに従事し、その軍事力を示しました 。同年10月には、信長に謀反を起こして大和信貴山に籠城した松永久秀討伐の総大将を務め、これを攻め滅ぼすという大功を挙げました 。この討伐の功績により、信忠は従三位左近衛権中将に叙任されるという高位を得ました 。

これらの実績は、信忠が着実に武功を積み上げ、父信長も認める正統な後継者であったことを明確に示しています 。天正元年(1573年)以降、織田信忠を筆頭とする「信忠軍団」が編成され、池田恒興、森長可、河尻秀隆らを主力としていました 。この軍団は、主に東美濃に勢力を張っていた武田軍の影響を駆逐・排除する戦いを担っており、信忠は松永久秀討伐で総大将を務めるなど、大規模な軍団を指揮する実戦経験を積んでいました 。信忠が家督を継ぎ、尾張・美濃の支配権を譲られる以前から、彼を核とする軍団が形成され、武田氏との最前線で実戦経験を積んでいたことは、甲州征伐における「信忠軍団」の効率的かつ迅速な作戦遂行の強固な基盤となっていたと考えられます。これは、信長が信忠を単独の司令官として育てるだけでなく、彼を核とした専門軍事組織を早期から構築していたことを示しています。信忠の軍事的な成長は、彼個人の資質だけでなく、信長による組織的な育成と、実戦を通じて形成された専門軍団の存在に支えられていたことを示唆します。これにより、甲州征伐のような大規模な作戦において、彼が総大将としての役割を十全に果たせる素地が整っていたと言えます。

以下に、織田信忠の主要な官職と経歴をまとめます。

年号出来事官職/地位関連する主要な戦い
弘治3年(1557)誕生
元亀3年(1572)元服浅井長政との戦闘(初陣)
天正3年(1575)長篠の戦い従軍長篠の戦い
天正3年(1575)家督継承、岐阜城主出羽介、正五位下、秋田城介
天正5年(1577)紀伊雑賀攻め従事雑賀攻め
天正5年(1577)松永久秀討伐総大将従三位左近衛権中将信貴山城の戦い
天正10年(1582)甲州征伐総大将甲州征伐(信濃攻め)
天正10年(1582)本能寺の変にて自刃本能寺の変

2. 甲州征伐の背景と戦略

甲州征伐は、織田信長が天下統一を目前に控え、長年の宿敵であった武田氏を完全に滅ぼすための最終作戦でした。この戦役は、単なる軍事行動に留まらず、周到な政治的・心理的戦略が複合的に用いられた、信長らしい大規模な作戦として位置づけられます。

武田氏滅亡への道:長篠の戦い以降の情勢

武田氏は、かつて武田信玄の時代には「戦国最強」と称されるほどの勢力を誇っていました。しかし、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで徳川家康を破った後、信玄が病死し、子の武田勝頼が家督を継いでからは、その勢力は徐々に衰退の一途を辿っていました 。特に天正3年(1575年)の長篠の戦いでの大敗は、武田氏の軍事力と威信に決定的な打撃を与え、その後の勢力は著しく衰退していました 。武田家は、有力家臣の離反や内部の動揺が相次ぎ、内部崩壊の兆しを色濃く見せていた状況でした。

設楽原戦場跡
長篠城本丸跡

織田・徳川・北条連合軍の編成と侵攻計画

甲州征伐(武田征伐とも呼ばれる)は、1582年(天正10年)に織田信長とその同盟者である徳川家康、そして北条氏政が、衰退した武田勝頼の領国である甲斐・信濃・駿河・上野へ侵攻し、甲斐武田氏一族を攻め滅ぼした一連の合戦です 。この侵攻は多方面から計画的に行われ、武田氏を包囲殲滅する態勢が取られました。

具体的には、織田信長・織田信忠父子は主に信濃の伊那方面から武田領内へ侵攻しました 。信長の家臣である金森長近は飛騨方面から武田領内へ、同盟者の徳川家康は駿河方面から武田領内へ侵攻しました 。関東の北条氏政は当初詳細を知らされませんでしたが、情報収集の後、伊豆・駿河方面から軍の侵攻を開始しました 。

織田信忠は、この大規模な作戦において総大将という重責を担い、尾張と美濃の兵を木曽口・岩村口に出動させ、約50,000人にも及ぶ大軍勢を率いました 。織田軍は、天正元年(1573年)以降、信忠を筆頭に池田恒興・森長可・河尻秀隆らを主力とする、いわゆる「信忠軍団」を編成しており、この軍団は主に東美濃に勢力を張っていた武田軍の影響を駆逐・排除する戦いを続けていました 。

甲州征伐の出陣に際し、織田信長は信忠に対し、「今回は遠征なので連れていく兵数を少なくし、出陣中に兵糧が尽きないようにしなければならない。ただし人数が多く見えるように奮闘せよ」と書状で指示を与えています 。この指示は、遠征における補給の困難さを認識し、効率的な軍事行動を重視していたことを示しており、信長が短期決戦を志向していた可能性を示唆します。同時に、「人数が多く見えるように奮闘せよ」という指示は、武田方の戦意をさらに削ぎ、無血開城や寝返りを促す心理戦の要素を強く含んでいました。実際に、多くの城が無血開城していることから、この心理戦が成功したことがわかります 。この指示は、信長が総大将である信忠に、単なる武力行使だけでなく、戦略的な思考と心理戦の重要性も求めていたことを示唆しており、信忠がこの指示を理解し、実行できたことが、迅速な制圧に繋がったと考えられます。信長は、甲州征伐を単なる力攻めではなく、情報戦、心理戦、そして効率的な兵站管理を組み合わせた複合的な戦略として捉えていました。信忠がその意図を汲み取り、実践したことが、武田氏の迅速な崩壊に繋がった重要な要因の一つであると言えます。

さらに、織田家の明智光秀らが朝廷に働きかけ、正親町天皇から「東夷武田を討て」との勅命が出されました 。この勅命により、織田軍は武田家を攻める正式な大義名分を得て、武田勝頼とその武田軍は「朝敵」とされました 。この「朝敵」認定は、織田軍に武田氏を討つ「大義名分」を与え、戦いの正当性を国内外に示しました。これは、単なる領土拡張戦争ではなく、「朝敵討伐」という形で、信長の天下統一事業を正当化する重要な政治的・プロパガンダ的意味合いを持つものでした。また、「朝敵」とされたことで、武田氏内部の動揺をさらに加速させ、裏切りや離反を誘発する効果がありました。実際に、木曽義昌の寝返りや下条氏長の離反など、武田方の諸将の戦意喪失や投降が相次いでいます 。信長が朝廷工作に力を入れた背景には、信忠の家督継承と天下統一の最終段階を意識し、織田政権の正統性を確立する狙いがあったと考えられます。信忠がこの「朝敵討伐」の総大将を務めることで、彼の権威と実績をさらに高める効果も期待されたでしょう。甲州征伐は単なる軍事作戦に留まらず、信長が構築しようとしていた新たな天下秩序における織田家の地位を確立するための、政治的・象徴的な意味合いが非常に強い作戦でした。信忠はその中心に据えられ、その功績は織田政権の正統性を補強する役割も果たしました。

以下に、甲州征伐における織田信忠軍団の編成を示します。

役職主要武将役割/担当地域
大将織田信忠織田軍本隊の総指揮、伊那方面からの侵攻
先鋒森長可、団忠正、木曽義昌、遠山友忠最前線での突破、木曽口・岩村口からの進軍
本隊河尻秀隆、毛利長秀、水野守隆、水野忠重先鋒隊の支援、伊那街道からの進軍、主要拠点の制圧
付属織田長益およびその他の織田一門衆、丹羽氏次およびその他織田一門衆による補佐、各方面での支援
軍監滝川一益軍全体の統制、信忠の補佐、戦略的指導

3. 信濃攻め:武田領への迅速な進軍

織田信忠が総大将を務めた信濃攻めは、武田氏の内部崩壊と織田軍の周到な戦略、そして信忠自身の迅速かつ大胆な判断が相まって、驚くべき速さで進行しました。

緒戦:南信濃諸城の無血開城と寝返り

天正10年(1582年)2月3日、森長可、団忠正を先鋒とする織田軍が岐阜城を出陣しました 。若い両将の目付け役として、経験豊富な河尻秀隆が本隊から派遣されました 。2月6日には、先鋒隊は森、団の両名が木曽口から、河尻が伊那街道から信濃に兵を進めました 。

織田軍の迅速な進軍に対し、伊那街道沿いの武田勢力は恐れをなし、抵抗することなく次々と降伏しました。同日、滝沢(長野県下伊那郡阿智村・平谷村周辺)の領主であった下条信氏の家老・下条氏長が信氏を追放して織田軍に寝返り、河尻の軍勢を戦わずして信濃へと招き入れました 。さらに2月14日には、松尾城(飯田市)主の小笠原信嶺も織田軍に寝返るなど、武田領内の要衝を守る各城主は、武田家の重臣ばかりであったにもかかわらず、戦うことなく次々に降伏するか、あるいは城を捨てて逃亡しました 8。これにより、織田信忠軍はほぼ無傷のまま進軍することができました 。

これらの事実は、武田氏が長篠の戦い以降、単に軍事力が衰えただけでなく、内部統制が著しく弛緩し、家臣団の忠誠心が失われていたことを強く示唆しています。織田軍の迅速な進軍と「朝敵」認定という大義名分が、武田氏内部の不満や動揺を決定的に表面化させ、無血開城や寝返りを誘発する強力な心理的圧力となったと考えられます。甲州征伐は、武田氏の軍事力だけでなく、その統治体制と家臣団の結束が既に限界に達していたことを露呈させました。織田信忠の迅速な進軍は、この武田氏の弱点を最大限に突き、戦わずして勝利を収めるという効率的な戦略を成功させました。

信忠の迅速な判断と進軍、信長からの指示を越えた行動

緒戦での順調な進軍を受け、2月12日には本隊を率いる織田信忠と軍監の滝川一益がそれぞれ岐阜城と長島城を出陣しました 。翌々日の2月14日には岩村城に兵を進め、2月17日には平谷に陣を進め、さらに翌日には飯田まで侵攻しました 。この信忠の迅速な進軍は、武田方の戦意喪失をさらに加速させました 12

この進軍の途中で、織田信長から「信長本隊が到着するまで待機せよ」との指示が出されます 。しかし、織田信忠はこの指示を無視し、約30,000の兵で高遠城を包囲するという大胆な行動に出ました 。総大将である信忠が、父信長からの明確な指示を無視して行動したことは、彼が単なる「信長の代理人」ではなく、自身の判断で戦局を読み、決断を下すことができる自律した指揮官であったことを示しています。この決断は、武田方の士気が低下し、諸城が次々と降伏する状況を鑑み、勢いを失う前に一気に高遠城を叩くべきだと判断した、極めて戦略的なものであった可能性が高いです。待機することで、武田方が態勢を立て直したり、援軍が到着したりするリスクを避けたかったのかもしれません。

後に信長が信忠の功績を絶賛し、「天下を譲ろう」とまで言ったこと は、信長が信忠のこの行動を結果的に容認し、むしろその決断力を高く評価したことを示唆します。信長自身も常識を打ち破る行動を取る人物であったため、信忠のそうした資質を認めたのでしょう 。信忠のこの行動は、彼が単に命令を遂行するだけでなく、自身の判断で戦況を有利に進めるためのリスクを冒すことができる、優れた軍事指揮官としての資質を持っていたことを明確に示しています。これは、彼が信長の後継者として相応しい「才覚」を備えていたという評価 を裏付ける具体例であると言えます。

以下に、甲州征伐における織田信忠軍の進軍経路と主要拠点をまとめます。

日付場所出来事関連武将
2月3日岐阜城織田軍先鋒隊出陣森長可、団忠正
2月6日木曽口・伊那街道先鋒隊が信濃へ侵攻森長可、団忠正、河尻秀隆
2月6日滝沢(下伊那郡阿智村・平谷村周辺)下条氏長が主君を追放し、織田軍に寝返る河尻秀隆、下条氏長
2月12日岐阜城、長島城織田信忠本隊と滝川一益が出陣織田信忠、滝川一益
2月14日岩村城織田信忠本隊が岩村城に進軍織田信忠
2月14日松尾城(飯田市)松尾城主小笠原信嶺が織田軍に寝返る小笠原信嶺
2月17日平谷織田信忠が平谷に陣を進める織田信忠
2月18日飯田織田信忠が飯田まで侵攻する織田信忠
2月28日高遠城周辺河尻秀隆が信長から高遠城攻略のための陣城築城を命じられる河尻秀隆
3月1日高遠城(伊那市高遠町)織田信忠が約30,000の兵で高遠城を包囲織田信忠
3月2日高遠城織田軍30,000が高遠城を総攻撃、落城織田信忠、仁科盛信
高遠城陥落後杖突峠、諏訪大社織田信忠軍が杖突峠を制圧、諏訪大社を焼き払う織田信忠
3月7日甲府(躑躅ヶ崎館)織田軍が武田家の本国・甲府に入城織田信忠

4. 高遠城の戦い:信忠の奮戦と武田氏の抵抗

甲州征伐の中でも、特に熾烈な戦いとして知られるのが高遠城の戦いです。この戦いは、織田信忠の軍事的能力と、武田氏の最後の意地を示す象徴的な出来事となりました。

高遠城の地理的要衝と仁科盛信の覚悟

天正10年(1582年)3月1日、織田信忠は信濃伊奈郡に位置する武田軍の高遠城(長野県伊那市高遠町)を約30,000の兵で包囲しました 。高遠城は、武田信玄の五男である仁科五郎盛信が守っていました 。盛信の手勢はわずか500人(3,000人との説もあり)で、圧倒的な兵力差に直面し、援軍も期待できない絶望的な状況での籠城戦が始まりました 。

高遠城は天然の要害とされ、特に東側の堀は城内の堀の中でも最も深く掘られており、防御の最前線が築かれていました 。この堅固な防御を誇る城を、少数の兵で守り抜こうとする仁科盛信の覚悟が、この戦いを一層壮絶なものにしました。

信忠の降伏勧告と盛信の断固たる拒絶

織田信忠は、他の武田方の城を落とした際と同様に、まず平和的な解決を試みました。地元の僧侶を使者とし、仁科盛信に黄金と書状を送り、城の開城を促しました 。しかし、仁科盛信はこの要求を断固として拒絶しました。それどころか、使者の僧侶の耳と鼻を削ぎとって送り返すという、徹底抗戦の覚悟を織田軍に示しました 。盛信は、諏訪上原城にいた武田勝頼の援軍を頼みにしていた可能性もありますが、この時点で勝頼は既に新府城に後退しており、援軍は期待できない状況でした 。この盛信の行動は、武田氏の武士としての誇りと意地を象徴するものであり、織田軍に正面からの激突を迫るものでした。

総大将信忠の陣頭指揮と堀への突入

本来信長は信忠に「信長本体が到着するまで攻撃を待て」と指示を出していたらしいのですが、信忠自身が攻撃の判断を下し、仁科盛信の拒絶を受け、3月2日早暁より、織田軍30,000は高遠城の総攻撃を開始しました 。織田軍は東西南北の各門をいっせいに攻め、力ずくでこじ開けると、一気に本丸へと迫りました 。この激戦の中で、総大将である織田信忠は驚くべき行動に出ます。彼は自ら先頭に立って突進し、堀によじ登るという奮戦ぶりを見せました 。

高遠城

信忠のこの勇猛な行動は、兵士たちの士気を極限まで高めることに繋がり、織田軍は「高遠城」をわずか一日で陥落させ、自軍を勝利へと導きました 。戦国時代において、総大将が自ら危険を顧みず陣頭に立つことは、兵士たちの士気を極限まで高め、劣勢を覆すほどの力を生み出す可能性があります。信忠のこの行動は、兵力差が圧倒的であった高遠城攻めにおいて、仁科盛信の「玉砕覚悟」の抵抗を打ち破るための決定的な要因となったと考えられます。この行動は、信長がかつて桶狭間の戦いで見せたような、常識破りの大胆な指揮に通じるものがあります 。信忠が父の「才覚」を受け継いでいたことを示す具体例であり、信長が彼を後継者として選んだ理由の一つが、この種の「将器」であった可能性が高いです。信忠の陣頭指揮は、単なる勇猛さの表れではなく、戦局を打開するための計算された、あるいは本能的な戦略的判断であったと言えます。これにより、高遠城の早期陥落という結果に繋がり、甲州征伐全体の迅速な終結に大きく貢献しました。これは、信忠が「武将としての力量を疑うような逸話」があったとしても、実際には「かなりの力量を備えていた」という近年の再評価 を裏付ける強力な証拠となります。

織田信長の一代記である『信長公記』には、「織田信忠が後継者として果たした甲州征伐での役割は、次代にまで伝えられるべき功績である」と称賛した記述が見られます 。

激戦と高遠城の落城、仁科盛信の壮絶な最期

高遠城の戦いは、織田軍の損害も甚大でした。城内の女性らも刀を取って戦い、必死の抵抗を続けたと伝えられています 。この激戦の中で、織田信長の従兄弟である織田信家が討ち取られるなど、織田軍も大きな犠牲を払いました 。しかし、兵力差は埋めがたく、城はわずか一日と持たずに落城しました 。

城が陥落すると、仁科盛信は自害し、多くの家臣も討死または自決を果たし、全員玉砕という壮絶な最期を遂げました 。仁科盛信の徹底抗戦と壮絶な最期は、武田氏の武士としての誇りと意地を象徴するものでした。しかし、その孤立無援の抵抗は、既に内部から崩壊し、多くの家臣が離反・降伏していた武田氏全体の命運を変えるには至りませんでした。むしろ、盛信の玉砕は、武田氏の滅亡が不可避であることを決定的に示した出来事となりました。高遠城の戦いは、織田信忠の軍事的才能と、武田氏の末期における悲劇的な抵抗の両面を浮き彫りにします。個人の勇猛さや忠誠心だけでは、時代の大きな流れや組織の崩壊を食い止めることはできないという、戦国時代の厳しさを物語る象徴的な戦いであると言えます。

盛信の奮戦ぶりは後世に語り継がれ、長野県の県歌『信濃の国』にも「仁科五郎盛信」として歌われるほど郷土史に刻まれています 。盛信の首は京へ送られましたが、胴は領民の手で五郎山へ手厚く葬られました 。

5. 武田氏滅亡と信忠の功績

高遠城の落城は、武田氏滅亡を決定づける出来事となり、織田信忠の軍事的な功績を天下に知らしめることとなりました。この勝利は、信長の天下統一事業を大きく加速させる結果をもたらしました。

甲斐への進軍と武田勝頼の最期

高遠城陥落後、織田信忠の軍勢は武田軍の殿軍が撤退した後の杖突峠を押さえ、織田軍の本陣を諏訪に進めました 。この地で、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払うという、武田氏の精神的支柱を破壊する行動に出ました 。一方、木曽義昌は信濃の要衝である深志城の攻略に向かいました 。

武田勝頼・信勝父子は、木曽義政(義昌)の謀反を聞き、甲斐の新府城(韮崎市)から1万5千ばかりの兵で諏訪の上原に陣を据えましたが、織田軍の猛攻と家臣の離反により、その後新府城を退去し、山中の民家に身を潜めざるを得ない状況に追い込まれました 。3月7日には、織田軍は武田家の本国・甲府(躑躅ヶ崎館)に入り、一条蔵人の私宅に陣を構えました 。最終的に武田勝頼は天目山田野で最期を迎え、切腹(自刃)しました。勝頼と子の信勝の自害により、戦国大名としての武田家は完全に終焉を迎えました 。

旧武田領の平定と残党掃討

武田宗家の終焉後も、織田信忠は旧武田家の生き残りや残党たちの追討、捜索を徹底して行いました 。織田軍は領内をくまなく捜索し、旧武田家の残党が逃げ込んだ恵林寺を包囲しました。寺側が引き渡しを拒否したため、恵林寺を焼き討ちにしたと伝えられています。この厳しい残党掃討は、武田氏の再興を完全に断つための措置でした 。

信長からの絶賛と家督禅譲の意向

甲州征伐は、織田信忠の指揮の下、出陣からわずか30日で強敵の武田を滅ぼし、信濃、甲斐、駿河、上野など数か国を平定するという、まさに大殊勲でした 。この驚異的な速さでの完了は、信長が目指す天下統一の最終段階において、他の方面(例えば中国地方の毛利攻め)に軍事力を集中させることを可能にしました。武田氏という強力な敵を短期間で排除できたことは、織田家の戦略的資源を解放し、次の目標への迅速な移行を促したと言えます。また、短期間での勝利は、織田家の軍事力と組織力の圧倒的な優位性を内外に示し、残る敵対勢力への心理的圧力を増大させました。これは、信長が天下統一を目前に控えていた時期において、極めて重要な意味を持つものでした。

信長は信忠のこの功績を高く評価し、「天下を譲ろう」とまで言ったと伝えられています 。信長は「今年の冬には正式に家督を譲ろうと思うので、その証拠として伝家の宝刀を授けよう」と述べ、父・織田信秀から受け継いだ名刀を信忠に与えました 。これは、信忠が名実ともに織田家の後継者として認められ、信長が天下統一後の体制を信忠に託そうとしていた明確な意思表示でした。『信長公記』には、信忠が後継者として果たした甲州征伐での役割は、次代にまで伝えられるべき功績であると称賛されています 13

6. 結論:織田信忠の再評価と歴史的意義

織田信忠は、織田信長の嫡男として生まれ、その短い生涯の中で数々の武功を挙げ、織田家の天下統一事業において極めて重要な役割を担いました。彼は単なる血縁による後継者ではなく、その軍事的な才覚と指揮能力を信長に認められ、計画的に育成された真の将器であったことが、甲州征伐における活躍から明確に示されています。

信忠の生涯は、元亀3年(1572年)の初陣から始まり、天正3年(1575年)には家督を継承し、尾張・美濃の支配権と岐阜城を任されました 。その後も紀伊雑賀攻めや松永久秀討伐の総大将を務めるなど、着実に実績を積み重ね、従三位左近衛権中将という高位に叙任されました 。これらの経験と実績は、彼が甲州征伐において約50,000の大軍を率いる総大将として、その役割を十全に果たすための強固な基盤となりました。

特に信濃攻めにおける彼の指揮は、その能力を際立たせています。武田氏の内部崩壊が進んでいたとはいえ、織田信忠軍は南信濃の諸城をほぼ無傷で制圧し、驚異的な速度で進軍しました 。この迅速な進軍は、武田氏の弱点を最大限に突き、戦わずして勝利を収めるという効率的な戦略を成功させたと言えます。高遠城の戦いでは、信長からの待機命令を無視し、自らの判断で約30,000の兵を率いて城を包囲 。さらに、総大将でありながら自ら堀によじ登り突進するという大胆な陣頭指揮を執り、兵士たちの士気を極限まで高め、わずか一日で難攻不落とされた高遠城を陥落させました 。この行動は、彼が単に命令を遂行するだけでなく、自身の判断で戦況を有利に進めるためのリスクを冒すことができる、優れた軍事指揮官としての資質を持っていたことを明確に示しています。信長が彼の功績を絶賛し、「天下を譲ろう」とまで言ったことは 、信忠が信長の後継者として相応しい「才覚」を備えていたという評価を裏付けるものです 。

甲州征伐の迅速な終結は、信長の天下統一戦略において極めて重要な意味を持ちました。わずか30日で武田氏を滅ぼしたこの大殊勲は、織田家が備中攻略に軍事力を集中させることを可能にし、天下統一の最終目標達成への道を大きく開きました 。

織田信忠は本能寺の変の直前、備中高松城を包囲していた羽柴秀吉への援軍に向かうため、京都に入っていました 。

しかし、信忠の輝かしい功績は、天正10年(1582年)の本能寺の変によって突然の終焉を迎えます。父信長が明智光秀に襲撃されたことを知ると、信忠は救援に向かおうとしましたが、時すでに遅し、信長自刃の報告を受けました 。京都所司代・村井貞勝の助言を受け、防御に適した二条御所に入り籠城を決断 23。誠仁親王と公家衆を避難させた後、圧倒的な兵力差にもかかわらず、自ら太刀を持ち、明智軍を三度も撃退するなど奮戦しました 。彼のこの壮絶な最期は、高遠城で見せた勇猛さが災いしたとも言われますが 、父を失った状況で、自らの命を顧みず戦い抜いた彼の覚悟と将器を改めて示すものでした 。近年の歴史研究では、信忠はかつて「凡庸な二代目」と低く見られた時期もありましたが、岩村攻めや甲州征伐での成果を見ると、むしろ十分に有能であったと再評価されることが多くなっています 。もし信忠が本能寺の変を生き延びていたなら、その後の日本の歴史は大きく変わっていたかもしれないという「if」を掻き立てられる人物です 。彼の軍事的な力量と信長からの厚い信頼は、彼が織田家の後継者として、そして日本の統一者として相応しい器量を持っていたことを明確に物語っています。信忠の生涯は短くも、戦国時代の終焉を決定づける重要な時期に、その武功と決断力をもって歴史に確かな足跡を残しました。