毛利家と石山本願寺は、織田信長を共通の敵とする「信長包囲網」の一角として、強い協力関係にありました。特に、石山合戦において、毛利家は本願寺を軍事・経済の両面から支援し、信長を大いに苦しめました。
兵糧・武器の補給
石山合戦が始まると、織田信長は石山本願寺を海から包囲し、兵糧攻めを行いました。本願寺は毛利家に援軍を要請し、これに応じた毛利家は、瀬戸内海の制海権を握る村上水軍を主力とする水軍を派遣します。
1576年の第一次木津川口の戦いでは、毛利水軍が織田水軍を破り、見事に本願寺への兵糧・弾薬の輸送に成功しました。これにより、本願寺は信長の兵糧攻めを耐え抜き、戦いが長期化する大きな要因となりました。
戦略的な連携
毛利家は、織田氏の天下統一を阻止するという共通の目的のため、石山本願寺を重要な戦略拠点と見なしていました。本願寺が近畿地方で信長を牽制している間に、毛利家は中国地方での勢力拡大を進めることができました。
しかし、信長が開発した鉄甲船によって、1578年の第二次木津川口の戦いで毛利水軍は敗北し、海上からの補給路が完全に断たれてしまいます。これにより、本願寺は孤立し、最終的には信長と和睦せざるを得なくなりました。

本願寺が率いる一向宗は手強く、織田家では信長の弟を含めて6人が戦で討ち死にし、家臣や多数の兵が一向宗との戦いで犠牲となりました。信長自身も負傷し、この一向宗との戦いで天下統一が10年遅れたとも伝わっています。戦費等の経済的損失、人的損失、時間の損失は相当な物だったと思われます。
織田信長の負傷
1576年(天正4年)、石山本願寺との天王寺の戦いで、織田軍は本願寺勢力の反撃に遭い、窮地に陥りました。信長は自ら先頭に立って敵陣に突入し、戦況を立て直そうと奮戦しました。この時、信長は足に鉄砲の弾を受けて軽傷を負ったと伝えられています。大将である信長が自ら最前線で戦い、負傷するということは非常に異例な出来事でした。
明智光秀の状況
明智光秀もこの天王寺の戦いに参加していました。一時は本願寺勢に攻め込まれ、危ういところを信長の援軍によって助けられています。光秀は激戦と長期にわたる戦いの心労から、同年中に過労で倒れ、療養を余儀なくされました。このことから、光秀も精神的・肉体的に大きな負担を負っていたことがわかります。
このように、石山合戦は織田軍にとって非常に厳しく、信長やその重臣たちも大きな危険に晒されるような激しい戦いだったのです。
石山本願寺との戦い(石山合戦)における損失
- 経済的損失:
- 長期にわたる戦費: 石山合戦は1570年から1580年までの10年間にも及ぶ長期戦でした。この間、信長は常に本願寺勢力と交戦状態にあり、膨大な軍事費がかかりました。兵糧や武器、兵士の給与、城砦の築城・改修など、その費用は莫大なものだったと考えられます。
- 商業的な損失: 本願寺が支配する地域は商業的な中心地であり、その地域の経済活動が停滞することで、信長の経済基盤にも影響を与えました。特に、大阪湾の海上交通が本願寺勢力に阻まれたことは大きな打撃でした。
- 人的損失:
- 多数の有力家臣の戦死: 石山合戦では、織田軍の多くの家臣が戦死しました。たとえば、戦いの初期には佐々成政の弟である佐々政次が戦死し、他にも信長の弟である織田信行の家臣である長谷川秀一の父などが戦死しています。長島の一向一揆では柴田勝家が負傷、しんがりに周った氏家卜全が討ち死にとなっております。
- 兵士の損耗: 長期間にわたる戦闘で、織田軍の兵士も多数失われました。一揆勢との戦いでは、ゲリラ戦のような奇襲や待ち伏せも多く、兵士の損耗が激しかったと推測されます。
毛利水軍との戦いにおける損失
- 木津川口の戦い(第一次)
- 織田水軍の大敗: 1576年に行われた第一次木津川口の戦いでは、織田水軍は毛利水軍に大敗しました。毛利水軍は焙烙玉(火薬を詰めた武器)を駆使し、織田水軍の船の多くを焼き払ったとされています。
- 船と人員の損失: 織田軍は300艘もの船を集めましたが、その大半を失い、死傷者も数百人に上ったと伝えられています。これにより、海上からの兵糧・物資の補給路が断たれ、石山本願寺への包囲網が一時的に崩壊しました。
- 経済的損失:
- 鉄甲船の建造費: 第一次木津川口の戦いの敗北後、信長は毛利水軍に対抗するため、革新的な「鉄甲船」を建造しました。鉄甲船は鉄で船体を覆った船で、焙烙玉の攻撃を防ぐことができましたが、その建造には莫大な費用がかかったと考えられます。
- 海上補給路の遮断: 毛利水軍に大阪湾の制海権を握られたことで、信長は石山合戦で本願寺を兵糧攻めにすることが困難になり、戦いが長期化する要因となりました。
まとめ
石山合戦と毛利水軍による被害は、個別の戦闘における兵士の死傷者数だけでなく、長期にわたる戦費の増大、戦略的な拠点の喪失、そして何より天下統一の計画の遅延という形で、信長に大きな損失を与えました。特に、毛利水軍の活躍は、信長が陸戦だけでなく、海上での戦いにも対応しなければならないことを認識させ、鉄甲船という新兵器の開発につながるなど、信長の戦略にも影響を与えました。