宿敵・武田氏との「守りの戦い」

織田家と武田家の関係は、信玄存命中は必ずしも敵対的ではありませんでした。しかし、信玄の三河侵攻により敵対関係となり、信玄が亡き後、子の勝頼が家督を継ぐと、状況は悪化の一途を辿りました。

  1. 「信長包囲網」への参加と対立の激化
    • 室町幕府15代将軍・足利義昭が信長と対立し、信長を排除しようと各地の大名に呼びかけて「信長包囲網」を形成しました
    • 武田信玄の時代から、武田家は圧倒的な軍事力を誇り、表面上は姻戚関係を結んでいたりもしたが、今川家の滅亡により織田家領土を接するようになり対立が表面化していきました。そうした中で足利義昭による信長討伐の要請により信玄が亰の都に上る大義名分を得ました。
    • 武田勝頼もこの包囲網に参加し、織田氏の同盟相手である徳川家康の領地(遠江・三河)への侵攻を繰り返しました。
    • 特に長篠城攻略、難攻不落とされた高天神城を巡る攻防は、織田信長・徳川家康と武田家の対立を決定的なものにしました。
  2. 武田氏の弱体化と家臣の離反
    • 長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗し、多くの有力家臣を失いました。
    • その後も、勝頼は対外的な戦争を続け、経済的・人的な負担が増大しました。
    • 勝頼は高天神城を一度は攻略しましたが、後に徳川家康に奪還され、武田氏の威信は大きく失墜しました。
    • これにより、武田家臣団の結束が揺らぎ、木曽義昌や穴山信君といった有力家臣が織田方へ寝返る事態が起こり、武田氏は内部から崩壊が進みました。

こうした状況を見て、信長は武田氏を滅ぼす好機と判断し、甲州征伐に踏み切りました。

  3.信長の決断:

  • 武田氏の内部崩壊が進んだことで、信長は千載一遇の好機と捉えました。
  • 「甲州征伐」は、長年の宿敵を滅ぼすことで自らの威信を高め、天下統一の正当性を示す上で不可欠な戦いでした。
  • 信長は甲州征伐が完了すると、直ちに京都へ戻り、毛利征伐の陣頭指揮を執るために中国地方へ向かおうとしました。

この戦いは、信長にとって自らの背後の憂いを完全に断つための**「守りの戦い」**であり、天下統一の道を磐石にする上で不可欠でした。

西日本最大の勢力・毛利氏との「攻めの戦い」

武田氏を滅ぼした信長が次に標的としたのは、西日本最大の勢力である毛利氏でした。毛利氏を討伐することは、天下統一の総仕上げとなる**「攻めの戦い」**でした。

信長は、毛利征伐を羽柴秀吉に任せ、自身は京都で指揮を執ろうとしていました。しかし、毛利氏の最大の強みである水軍が、信長の前に立ちはだかりました。

毛利水軍は、信長と対立する石山本願寺への兵糧輸送を支援するため、信長の水軍と激突しました。

石山本願寺跡地・大阪城二の丸付近
  • 第一次木津川口の戦い(1576年): 村上水軍を主力とする毛利水軍は、火薬兵器「焙烙火矢」を駆使して織田水軍を壊滅させました。この敗北により、信長は本願寺への海上補給路を断てなくなり、石山合戦はさらに長期化しました。
  • 「鉄甲船」の建造: この敗戦を教訓に、信長は莫大な費用をかけて鉄で船体を覆った「鉄甲船」を建造。2年後の第二次木津川口の戦いで勝利を収め、ようやく制海権を奪還しました。

これらの戦いは、信長の天下統一の計画を大きく遅らせ、多くの資源と人員を消費させました。毛利征伐は、武田氏討伐後に信長が全力を注ごうとした最重要課題だったのです。

石山戦争図

日本統一の野望

信長は「天下布武(てんかふぶ)」という言葉を掲げ、武力によって天下(日本)を統一するという明確な野望を持っていました。

  1. 経済基盤の確立
    • 楽市楽座などの政策で商工業を活性化させ、経済力を高めました。
    • 南蛮貿易で鉄砲を大量に手に入れるなど、軍事力の強化にも力を注ぎました。
  2. 革新的な軍事戦略
    • 長篠の戦いでは、鉄砲を効果的に活用した戦術で武田氏の騎馬隊を打ち破るなど、従来の戦術にとらわれない新しい戦い方を取り入れました。
  3. 既存の権威の打破
    • 比叡山延暦寺の焼き討ちや、足利義昭の追放など、旧来の権威や秩序を破壊し、自らの権力を確立しようとしました。

武田家の滅亡は、信長が東国はほぼ手中に収めたことを意味し、信長の野望実現が目の前という事を物語っていました。東国という背後の憂い無く西国(毛利家)平定に邁進出来るという展開になります。

信長は西日本最大の勢力である毛利氏を滅ぼすため、羽柴秀吉に中国地方への侵攻を命じていました。毛利氏を倒せば、残る大名は九州の島津氏や東北の伊達氏などでしたが、これらの勢力も毛利氏が滅びれば織田氏の巨大な軍事力の前に屈服するのは時間の問題だったでしょう。

しかし、そのわずか3か月後、信長は本能寺の変で非業の死を遂げ、天下統一は豊臣秀吉に引き継がれることになります。

恐らく信長が存命で信忠と明智光秀の軍勢をもって備中高松城に赴けば多大な領地割譲等の条件で毛利軍に対して有利な条件での和睦となったのではないだろうか?

だが、実際は戦場に向かう天正10年6月4日の前に明智光秀の謀反によりあっけなく人生の幕を下ろされてしまいました。何かに封殺されたかのように..かつて神話の時代に.諏訪に封じられた建御名方神のように信長のチカラが諏訪に封印されてしまったのかもしれません。